【拾壱】望まぬこと

 相談を終えミルクホールを出ても、辺りはまだ明るかった。

 日に日に夕暮れが遠くなっていくことに春の近付きを感じつつ、ゆら子は春本番に想いを馳せた。桜が咲くまでもう少し……

 カラン、とお店のベルが鳴って、会計を終えた正弥と寛次郎が出て来る。


「ご馳走さまでした。前回に引き続き申し訳ありません……」

「お店を決めたのは僕だからね。気にしないで」

「はい、これ。従妹ちゃんと食べて」


 土産用の羊羹カステラが包まれた包みを寛次郎から渡されたゆら子は重ねて礼を言った。寿々乃もゆら子に負けず劣らず感動していたので喜ぶだろう。その様子を想像して、ゆら子は知らず知らずのうちに頬を緩ませた。


「送って行くよ」

「ああ、それが良いな。もう少しで日も暮れるし」

「お気持ちは嬉しいのですが、家の者に見られると少々面倒なので……」


 心配そうに顔を曇らせる正弥と、きょとんとしている寛次郎にゆら子は逡巡した。正弥は純粋に厚意からだろうし、寛次郎としては日暮れ間近の時間に女学生をひとりで帰すという発想がないようだ。


「……やっぱり、近くの通りまでお願いしてもいいでしょうか?」

「もちろん」

「むしろ、気を遣わせてしまったみたいだね」

「いえ――」


 視界の隅に薄紅色を捉えたゆら子は、返事も忘れてそちらを振り返った。

 薄い紅色の生地に桜が散り、暗い緑色の袴が受け止めている。女学生としてはありふれた色合いの着物と袴だが、通りの向こうにいてもゆら子にはそれが誰なのかわかった。


「寿々ちゃん」


 視線を逸らす前に寿々乃も気が付いたらしく、行っていいのか行かない方がいいのかわからず、わたわたとし始めた。内心ため息を吐きつつもゆら子は、手招きしてやる。その途端、遠目でもわかるくらい寿々乃は顔を輝かせた。


「寿々ちゃんって……従妹の?」

「はい」


 正弥の問いに頷きながらもゆら子は寿々乃から目を逸らさなかった。寛次郎も同じく彼女をじっと見ていたが、通りを渡ろうとしている寿々乃が危険な目に合わないか見守るのに忙しいゆら子は気付かない。


「ごめんね、お邪魔かなと思ったんだけど……」

「いいのよ。話はもう終わったから」

「お話って……?」


 見知らぬ男性たちに一瞬だけ視線を向けた寿々乃だが、すぐに俯いてしまう。

 元々人見知りでもある寿々乃は、男性と話すことは特に苦手だった。お見合いに失敗し続けているせいで自信を失っていることもあるが、身長が低い寿々乃は男性と相対すると見下ろされることになり、それが怖いのだ。

 正弥は男性の平均より少し高いくらいの身長だが、寛次郎はそれから更に頭半分程度身長が高い。俯いた理由を察したゆら子は、寿々乃の前に出てじっと注がれている視線を遮ってやった。


「お姉ちゃんのこと。協力してもらってるって話したでしょ」

「あっ……羊羹カステラの?」

「ははっ、羊羹カステラの宮川正弥です。気に入ってもらえたようで何よりだよ」


 くすくすと笑いながら自己紹介をされて、寿々乃は失態に気が付いた。


「ご、ごめんなさ――いえ、申し訳ございません……私、失礼なことを……」


 自分の背中に隠れてしまった寿々乃を振り返らなくても、ゆら子には羞恥で顔を赤らめているだろうことが簡単に想像出来た。立ち直るまでには、しばらく時間がかかりそうだ。


「正弥さん、気にしていますか?」

「いや、まったく」


 緩く首を振る正弥から、隣へ視線を移したゆら子は首を傾げた。

 今日あったばかりとはいえ、ゆら子は寛次郎の性格をなんとなく把握していた。彼なら気の利いた茶々を入れて場を和ませてくれそうなものだが、ずっと黙ったままだ。

 当然、付き合いの長い正弥がその異変に気付かないわけがない。


「……君、さっきからどうした?」

「ん? ああ、うん」


 心ここにあらずといった感じの寛次郎は、じっとゆら子を見たままだ。正確には、ゆら子ではなく、その後ろに心を奪われている、のだが……


「寿々ちゃん、こちらは岩本寛次郎さん」


 背後に投げかけると頷く気配がした。衣擦れから僅かに顔を覗かせただろうと判断したゆら子は、寿々乃の好きにさせたまま、男性ふたりに向き直った。


「改めまして。この子は従妹の櫻木寿々乃です」

「よ、よろ……よろしくお願いします……」

「……よろしく」


 自分越しに交わされる会話に耐えられずゆら子は目を逸らす。正弥が、困ったような笑ってはいけないと思っているかのようななんとも言えない表情で目を伏せた。


「……日も暮れますから、帰りませんか?」

「うん、そうだね。それがいいよ」


 ゆら子はさっさと寿々乃の手を引いて歩き出した。

 それをぼんやり見ていた寛次郎は、正弥に突かれてようやく後に続く。最後に残ったのは正弥のため息だけだった。





――――




「……いい人、だったね」

「ん?」


 いつものお茶の時間。寿々乃の部屋にお邪魔したゆら子は早々に夕餉を片付けて、寿々乃が淹れてくれたお茶と土産に持たせてもらった羊羹カステラを楽しんでいた。

 そこに、顔を赤らめた寿々乃の発言である。首を傾げたゆら子だが、一拍置いた後には、おおよその検討がついてしまった。しかし、今更無視することも出来ず言葉を付け加える。


「……どっち?」

「え、えっと……か、寛次郎さん……」


 消え入りそうな声だったが、想像通りだったので聞き取ることは容易だった。内心の苛立ちを隠すために千切ったお菓子を口に放り込む。

 しかし、寿々乃はゆら子の様子に気を配る余裕はないようだった。


「あっ、正弥さんも親切な人だと思うけど……でも、そのね……」

「うん」


 言わんとしていることがわかったゆら子は、咀嚼して頷いた。

 帰り道。黙り込んでいたのが嘘みたいに寛次郎は喋り続けた。ゆら子や正弥に話を振ることもあるが、相手はもっぱら寿々乃だ。


「あんなにお話出来たの……初めてで……」


 寿々乃は話すことも得意ではない。

 それはおそらくまともに話を聞いてくれる人がいなかったためだろう。少なくともゆら子は、そう思っている。彼女の父は娘と話すことはほとんどなく、彼女の母は娘の話を最後まで聞くことなく遮りがちだ。だから、寿々乃は自分の言葉が無価値だと思っている節があった。


「よかったね」


 それは、素直な感想だった。

 寛次郎は良く喋ったが同じだけ寿々乃の言葉にも耳を傾けていた。そういう人が増えることは、きっと寿々乃にとっていいことだろう。耳を傾けてくれる人が増えれば、言葉に価値が生まれる。そして、自信に繋がる。

 だが、ゆら子は寛次郎の存在を歓迎出来なかった。


「また、お会いできるかしら……? 警察の方だって仰っていたし、お忙しいかな……?」


 その些細な願いは、ゆら子が取り持てば簡単に叶うことだ。

 でも、ゆら子はこたえられなかった。

 ただ茶を一口啜って話題を逸らす。


「だからって、あの時間にひとりでうろうろしてたらダメだからね」

「う、うん。今日はお稽古で遅くなっちゃっただけで……」

「それだけ?」


 そういえば今日は寿々乃が苦手なお華のお稽古だったと思い出しつつも、ゆら子は首を傾げた。指導が長引いたのなら、あの時間になるのはわかるが、今日、行き合わせた場所から稽古場は少し離れている。

 寿々乃はちらりと羊羹カステラを見て、俯いた。


「ミルクホール……見てみたくなっちゃったの……」

「気持ちはわかるけど、日が暮れ間近にひとりで居たら危ないよ」

「うん、これからは気を付けるね」


 ゆら子は内心でため息を吐いた。

 寿々乃が家の外に興味を持ち、自ら踏み出していくことは良いことだ。与えられた人間関係ではなく、自ら見つけた新しい交友関係を持つことも良いことだ。

 濁った緑の水面には、覗き込むゆら子の輪郭がぼんやりと映っている。どんな顔をしているのかまでは教えてくれない曖昧さはゆら子とよく似ていた。

 食べかけの羊羹カステラは奇妙な形に欠けている。欠けたものは戻らない。欠けた部分がなくなってしまったのなら尚更。はみ出したところを削って、元の形に似せてみても意味はない。食べ始めたのなら最後まで食べてしまうか、或いは――


「ゆらちゃん?」

「ん?」

「疲れているの……?」


 心配そうな顔をしている寿々乃に曖昧に笑って、ゆら子は自分を中途半端に映し出していた茶を飲み干した。


「そうかもね」


 もう、羊羹カステラを食べる気分ではない。

 このまま懐紙にでも包んで持って帰り、戸棚にでもしまっておこうか。そして、忘れたふりをして、朽ちた頃に――なんだったかわからないものとして捨ててしまう。

 それが、一番平和かもしれない。


「えっ、大丈夫……? 疲れているなら、早く休んだ方が良いわ」

「ううん、そこまでじゃないから」


 ゆら子は嘘を吐いた。


「それより、もう少し話そうよ。こうして過ごせる時間は少ないんだから」

「あっ、うん。……じゃあ、学校で流行っている噂らしいんだけど、一本桜のことでね。えっと……確か、桜の精がいて」

「死体が埋まっているっていう話?」

「あ、うん。ゆらちゃんも知っていたのね……」


 平和なわけがない。

 だって、それは朽ちることも忘れることもできやしないのだ。


「昔……お姉ちゃんから学校で流行ってるって聞いたことがあったの」

「そうだったんだ。もしかして最近の流行りじゃない、のかな……?」

「うーん、どうだろう? 綺麗な花の下には何かあるんじゃないかっていうのは、よくある物語はなしだから、また流行り出したのかも」

「……せっかく、ゆらちゃんを驚かせられると思ったのに。きっと初めて聞いた時も驚かなかったんでしょう?」


 何度埋めて、何度忘れようとしても、いずれ掘り返される。

 それを望むものがいる限りは……


「さくらの精にとって埋まっている死体ものは邪魔だから、ひとりでやってきた人に『あなたが殺してここに埋めた』って思いこませて掘り起こさせようとする……っていうところは、驚いたし怖いと思ったよ」


 嗚呼、本当に。


「本当に?」

「本当に」


 恐ろしい話だ。

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