【漆】四年前の出来事

「絹子さん……事故死したのは僕の許婚だった人なんだ」

「えっ? あっ、申し訳ありません。私……」

「いや、いいよ。もう四年も前のことだから」


 顔を手で覆う正弥には、慌てた様子のゆら子は映らなかった。

 今の彼の思考を占拠しているのは、四年前のこと。雨の時期に増水した川に落ちて亡くなってしまったかつての許婚のことだ。


 水谷絹子が亡くなったのは、丘の一本桜のところだった。

 この丘、街から行くとなだらかだが、反対側は急な崖になっていて下には川が流れている。崖の高さはそれほどではないとはいえ、雨で増水した川に落ちて流されてしまえば助からない。

 梅雨の季節。長く続いた雨のせいで、足元がぬかるんでおり誤って足を滑らせたための不幸な事故――と、世間では、絹子のことは処理された。

 しかし、それが事故ではなく殺人であったと正弥は知っていた。

 彼の許婚だった少女は、突き落とされて死んだのだ。

 だが、それも今となっては過去のことだった。知っていたところでどうにもならない。変えようのないことだ。


「……あの、大丈夫ですか?」


 そっとゆら子が覗き込んで来る。

 つい、思い出したくもないことを思い出してしまった。

 絹子には、こうして心配されたことなどなかった。両親に甘やかされて育った彼女は、他人を気遣うということを知らなかった。何事においても、自分が一番。誰よりも優遇されないと、不機嫌になる気難しい少女だった。許婚だった正弥のことは気に入っていたらしく、ネコを被っているつもりだったようだが、それでもなお、その傲慢さは隠しきれなかった。

 敵を作りやすい彼女のことを、それでも正弥は愛そうとした。許婚であるからには、誠実でいようと思っていた。

 何があろうと、自分だけは彼女の味方でいなければいけないと、思っていた。

 それが許婚の……いずれ夫となる者の務めだと。


 だが、絹子は死んだ。

 殺された。

 我儘なところはあるが、それも裏を返せば自分に正直なだけ。彼女は、殺されるだけのことをしたのだろうか?


 ――妹の仇なの。


 別の、冷めた目をした女性が正弥の脳裏を掠める。

 ショートカットに丈の短いスカート、印象的なルージュと流行の最先端を行くモダンな女性。雪の中で彼女は――



「正弥さん!」


 ゆら子に名前を呼ばれて、正弥はようやく現実に戻ってきた。

 心配そうに見られていることが気まずくて、なんでもないと首を振って誤魔化す。逡巡したものの、ゆら子は何も聞かなかった。ただ、困った顔で彼の様子を伺っている。


「話の腰を折ってしまって申し訳ない。それで、なんだったかな?」

「……実は、自殺した沙紀さんと姉は親しかったらしいのです」

「確か、学年が違ったはずだけど……」

「はい、その通りです。でも、学園でそれとなく聞いてみたので間違いありません。ふたりは親しかったそうです。家でも、姉は沙紀さんの自殺のこともずっと気に病んでましたし……。それに、姉と絹子さんは同じ学年でした。だから……」


 言葉を切ったゆら子は、躊躇いを見せた。

 それでも心を決めると真っ直ぐに正弥を見据える。


「私、姉は何か知ってしまったのではないかって思うんです。……例えば、沙紀さんと絹子さんが自殺と事故ではなくて、他殺で……姉はその証拠を知ってしまったとか」

「……本気で言っているのかい?」

「だって、同じ年に二人も亡くなって、更に一人失踪するなんておかしいじゃないですか……」


 正弥は答えられなかった。

 不幸な偶然が重なっただけといえばそれまでだが、ゆら子の話を荒唐無稽な話だと否定は出来なかった。

 記憶の彼方で髪の短い女が嗤う。


「もし、そうだったとして……。いや、そうだったとしたら調べるのは危険だよ」

「でも、たった一人のお姉ちゃんだから、私が見つけないといけないんです」

「……わかった」


 正弥が頷いてしまったのは、成人を迎えようという年頃の少女の切実さに負けたからなのか、ある種の罪悪感からなのかはわからない。

 勢いよく上げた顔をゆら子は輝かせた。まるで全ての問題が解決したかのような心底嬉しそうな様子に、正弥は困ってしまう。


「協力はするけど、力になれるかはわからないよ」

「協力してくださるだけで嬉しいです。ありがとうございます」


 無邪気に笑う少女に、正弥は食事の再開を勧めた。

 これ以上、礼を言われてはあまりにもいたたまれなかったからだ。幸いなことに、ゆら子は羊羹カステラに夢中で、正弥の様子には気付いていないようだった。

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