【陸】姉を探すために
翌日。ゆら子は再び、丘の一本桜が見える橋の上にいた。
街に背を向ける形で橋の欄干に背を預け、まだ咲かない一本桜を見上げている。しかし、よく見なければその視線は、桜ではなく橋の上で咲き誇る梅の花に注がれているように見えるだろう。
「おや?」
そこに通りがかったのは、昨日ゆら子を助けた青年だった。
首を傾げる青年の姿を認めると、ゆら子はゆっくりと頭を下げた。
「ごきげんよう。昨日は助けていただきありがとうございました」
「ああ、やっぱり昨日の……。大事にならなくてよかったね」
「おかげさまで」
青年はゆら子がしていたように空を見上げた。視界が梅の花でいっぱいになる。人通りが少ないことが勿体ない程の絶景だった。
「梅の花が好きなのかい?」
「はい。でも、今日は梅の花を見に来たわけではないんです」
ゆら子は、組んだ指の先を弄んだ。意味のないその動きを目で追っていると、青年が首を傾げる気配がした。案の定、チラリと伺えばきょとんと首を傾げている。
「ここに来れば、またお会いできるかもしれないと思って……」
「……僕に?」
「はい、お礼を申し上げたくて!」
困った様子の青年に、ゆら子は慌てて続けた。
合点がいったように、青年が肩の力を抜く。どうやら、面倒事ではなさそうだった。
「気にしなくていいのに」
「それと……無礼を承知でお願いがあるんです。宮川様、姉の行方を一緒に探していただけませんか?」
しかし、勇気を振り絞って更に続けられた言葉は青年――
正体を知られていたこともだが、唐突過ぎるお願いについていけない。それでいて、この場から立ち去ることができなかったのは、少女が揶揄っているわけではないとわかってしまうからだ。切実であり、他に頼る者がないのだと全身で訴えかけていた。
「えっと、まずは僕がどうして宮川だと?」
「……昨日、助けていただいた時からです。宮川百貨店の跡取りだということで新聞社に取材されたことがありますよね? その時の記事にお写真が載っていたので……」
宮川百貨店は、宮川財閥の傍系である正弥の父が経営している店で、今もっとも勢いがある百貨店のひとつだった。
嫡男である正弥は跡取りとして経営に携わっており、今後の経営方針について、取材を受けたことがある。ゆら子が見たのはその時の記事だろう。
「よく知っていたね。それほど大きな記事ではなかったと思うけど」
「新聞社に就職が決まっているんです。だから、勉強のために新聞は隅から隅まで読むようにしていて……」
「……警察には行ったのかい?」
「はい。でも、まったく行方がつかめていません」
ゆら子は遠くをじっと睨んだ。その視線の先には、あの一本桜がある。
まだ咲かない桜の木を見ているのか、さらにその遠くを見ているのか正弥にはわからない。だが、嫌な感じがしてゆら子の意識を自分に向けた。
「それで、僕に手伝ってほしいと?」
「この縁に縋るしかないんです。自分で探したくても、私の力だけだとどうしようもないから。どうかお願いします」
正弥には、この見知らぬ少女を手伝ってやる義理などない。家に多少の力があるとはいえ、人探しなど素人もいいところだった。
だが、必死で頼み込む少女の姿は憐れで胸を打つのも確かだ。友人から「人が好過ぎる」「いつか損をする」と度々揶揄われ、その度にあしらってきたが、これからは彼の忠告を甘んじて受け入れるべきかもしれない。
「……家の伝手を使っても見つかるとは限らないよ」
「力を貸してくださるのですか?」
「とりあえず話は聞くよ。手伝えるかはそれからだ」
「ありがとうございます。貴方が手伝ってくださるなら、姉は必ずみつかります」
今にも泣きそうな少女は深く頭を下げる。根拠のない信頼に居心地の悪いものを感じて、正弥は咳払いで誤魔化した。
「場所を移そう。立ち話ではなんだからね」
――――
「……あの、公園などではいけませんか?」
「ミルクホールは苦手かい?」
ぶんぶんと左右に首を振った少女は、小さな声で「手持ちがありません」と告げた。
恥ずかしそうにしている少女の遠慮に、正弥は思わず笑ってしまった。こうしていると、“お願い”をしてきた時の大胆さは鳴りを潜め、繊細な年頃の少女にしか見えない。
「僕のおごりだから好きなものを頼みなさい」
「そういうわけには……お願いしているのは私ですし……」
なおも遠慮する少女に先立ち、正弥は店の中に踏み込んだ。躊躇した後に少女も後に続く。どうやら初めて訪れるらしく、落ち着きなく店内を見渡していた。
席に通され、メニュー表を渡されてもどうしていいかわからないらしく、他の席の客が頼んだものを見ては、メニューに視線を戻すことを繰り返している。
「甘いものが好きなら、羊羹カステラとミルクコーヒーはどうかな? 定番らしいよ」
「では、それで……」
借りてきた猫のように大人しくなってしまった少女と自分の分の注文を終えた正弥に、少女は無理なお願いをした時より縮こまって礼を言った。
その様子がおかしくて、正弥は笑ってしまう。
笑われたことが情けないと感じたのか、少女は背筋を伸ばして仕切りなおそうとした。
「……改めまして、お話を聞いてくれてありがとうございます。私は櫻木ゆら子と申します」
「櫻木? ……というとあの由緒正しい櫻木家?」
「櫻木家当主の櫻木宗一郎は私の伯父です」
ここでも、正弥はゆら子に驚かされた。
櫻木家といえば、古くからある名家だ。最近は、時代に押されて勢いを失ってはいるが、それでも旧家のご令嬢が就職するというのは違和感がある。
正弥に助けを求めたことも鑑みれば、複雑な事情があるのかもしれない。
「お気付きかもしれませんが、私は伯父と折り合いが悪いのです。……私の両親が駆け落ちをしたこともあり、歓迎されているとはいえなくて」
「それで、伯父上には助けを求められなかったのかい?」
「いえ、伯父も探してくれてはいるのですが、卒業して家を出るまでに私の手で姉を探し出したいんです」
言外に「伯父のことは信用していない」というゆら子の意思を汲み取った正弥は、注文したものが届いたこともあり、それ以上は深く聞かなかった。
ゆら子の前には羊羹カステラとミルクコーヒーが、正弥の前にはコーヒーが並べられていくのを二人は無言で見守る。女給が去ったところで、羊羹が挟まったカステラを興味深そうに見ているゆら子へ食べるように促せば、彼女は恐る恐るといった雰囲気で小さく切り分けた欠片を口にした。
「おいしい」
「気に入ったならよかった」
「とてもおいしいです。きっと寿々ちゃんも好きだろうな……」
「寿々ちゃん? 失踪したお姉さんかな?」
「……すみません、忘れてください」
うっとりと味わっていたゆら子は、はっと我に返ると羊羹カステラのお皿にフォークを戻した。
誤魔化すように小さく咳ばらいをして、きっちりと座り直し背筋を伸ばすと、少女の顔を消す。まるでそういう役であるかのように、微笑を浮かべると落ち着いた声で本題を切り出した。
「姉は、櫻木春子と言います。母に似て美しいと評判で、妹の私から見ても長い黒髪はとても綺麗でした」
正弥は、“櫻木春子”という名前に聞き覚えがあった。
櫻木家の令嬢なのだから、と言われればそれまでだが、何か別の……もっと大切なことだったような気がする。
「歳は私より四つ上で、失踪したのも四年前なんです。四年前の秋、でした」
「……四年前」
「警察にも届け出ましたが行方はつかめず、“家出”ということで処理されました。でも、私にはそうは思えないんです」
ぎゅっと手を握るゆら子をぼんやりと眺めながら、正弥の意識は四年前という言葉に囚われていた。それは、彼にとっても因縁のある年だからだ。
「当時、姉は水谷女学園に通っていてその春に卒業する予定でした。ちょうど今の私と同じ年ですね。私も水谷女学園に通っていて、もうすぐ卒業ですから」
櫻木春子。
四年前。
水谷女学園。
ゆら子が告げる言葉が、過去を鮮やかにしていく。既に終わったはずのことが、忘れてはならないこととして、戻ってこようとしている。
「四年前、水谷女学園では姉の失踪だけではなく、通っていた女学生が二人亡くなっているんです。そのお二人は――」
「事故死と自殺だね」
「ご存知でしたか」
自殺したとされている少女の名前は、
そして、事故死したとされている少女の名前は、
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