【伍】約束事

 貰い受けた時から冷めきっていた夕食をゆら子が食べ終わった頃合いを見計らって、寿々乃は温かなお湯でお茶を淹れなおす。ゆら子にとって、冷たい夕食よりこのお茶の方が楽しみだった。


「ところでゆらちゃんは、大丈夫なの? もうすぐ卒業だけど……」

「自分のことは心配してないよ。住むところも、仕事も見つけてあるから」

「そうだよね、ゆらちゃんだもんね」


 ひとつ年下の従妹は、ゆら子のことをある種、崇拝しているきらいがあった。

 それは、ゆら子があらゆることをそつなくこなしているように見えるからだろう。実際は、寿々乃より少しだけ器用なだけなのだが、ゆら子には彼女の気持ちがわからなくもなかった。かつて、彼女自身も姉である春子に似たような思いを抱いていたからだ。


「ただ、ふたつだけ心残りがあるかな」

「ふたつ?」

「まず、寿々ちゃんと気軽に会えなくなっちゃうでしょ?」

「あっ、そっか……そう、だよね」


 今は、毎日こっそりと会っているがその時間ももうすぐ終わってしまうのだと気付かされた寿々乃は項垂れた。一日で唯一楽しい時間がなくなってしまうのだと思うと、漠然と感じていただけの寂しさが現実味を帯びて迫って来るような感覚がする。

 ゆら子は、そっと寿々乃の肩に触れた。


「お給料が入ったら、一緒に出掛けましょ。ミルクホールでも、レストランでも好きなところに連れて行ってあげる」

「本当に? いいの?」

「うん、約束」


 ゆら子も寿々乃もお小遣いをもらっていないので、同級生たちのように女学校帰りにミルクホールへ寄り道してお喋りをしたことはなかった。また、家族で食事に出掛けることなど余程のことがない限り在り得ない。なので、ふたりとも外食自体ほとんどしたことがなかった。


 無邪気に喜ぶ寿々乃の姿が、幼かった頃の自分に重なってゆら子は目を閉じた。

 幸せとは、ささやかな喜びの積み重ね。振り返った時、思い出せない程小さな喜びがたくさんあったのなら、それは幸せな人生だと言えるのだろう。

 では、その積み重ねが崩されてしまったら?

 母と姉の姿が浮かんで、ゆら子は眉をしかめた。まだ、あのふたりのことをどう受け止めればいいのか、ゆら子にはわからないままだ。


「あっ、えっと……ごめんね」


 浮かれていたことを恥じ入るように寿々乃は俯いた。寿々乃の喜び具合を、ゆら子が不愉快に感じたと勘違いしたのだろう。もじもじと指先を動かして怒られるのを待っている。


「お姉ちゃんのことを思い出していたの。もう一つの心残りはお姉ちゃんのことだから」


 ゆら子は、出来るだけ柔らかな声を取り繕って、なんでもなく聞こえるようにしたかったが、全くもって上手くいかなかった。

 感情の乗らない声に顔を上げた寿々乃は、慰めの言葉を探そうとするも上手くいかなかったらしく、再び俯いてしまう。


「……どこ行っちゃったんだろうね、春子さん」

「うん……」

「何か手掛かりが見つかるといいけど……」


 ゆら子には、寿々乃が言葉にしなかった続きがわかった。

 寿々乃の父でありゆら子の伯父である宗一郎の関心は、彼の妹とその妹によく似た姪の春子に向けられている。

 春子が失踪した四年前、当然ながら宗一郎はあらゆる手を使って春子を探し出そうとした。それでも手掛かりはなく見つけ出すことは叶わなかったのだ。

 つまり、それは春子の行方を掴むことは絶望的だということを意味している。


「えっと……その、あんまり落ち込まないで、ね?」

「ありがとう、寿々ちゃん」


 それでも、ゆら子は春子を見つけなければならなかった。

 この春が終わるまでには必ず……





――――





 離れに戻ると微かに梅の香りが漂ってきた。

 そう感じたのは、実際に香ったからではなく、ゆら子の心理がそうさせただけなのかもしれない。三輪だけの花が閉ざされた戸棚の中から香り、離れの中を満たすわけがないことは、少し考えればわかることだ。


 引き戸を開くと、二つの位牌が仲良く並んでいる。

 その手前に並べられた三輪の梅の花は、まだ萎れることなく瑞々しく咲き誇っていた。


「私、やるよ。お姉ちゃんを見つけてここを抜け出す」


 このどうにもならない状況は一度終わらせなければならない。

 ゆら子自身の人生を始めるために、終わらせなければならない。

 そして、寿々乃のためにも。


 遺品である将棋盤が目に入る。盤上に在りながら、駒を指すのはどんな気分なのだろう?

 おそらくゆら子には一生わからないことだ。彼女がするべきは、駒を指すのではなく、決められた通りに並べていくことだけなのだから。


 位牌の奥を漁ったゆら子は、目当てのマッチ箱を取り出すと戸棚を閉めた。

 出したままにしていた紙を持ち上げて、小さな炎を頼りに内容を辿る。最後の確認を終えたゆら子は、洗面台で紙を燃やすと残った灰を流して捨てた。

 炎に照らされて一瞬だけ映った彼女の顔は、なんの感情も浮かべてはいなかった。

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