【肆】内緒事
いつも通りぞんざいな態度の使用人から夕食を受け取ったゆら子は、離れに戻るフリをして本邸にある部屋の窓を叩いた。
「ゆらちゃん……!」
すぐに窓から顔を出した寿々乃は、安堵のあまり大きな声を出してしまった。
ゆら子が口元に指を添えて注意すると、寿々乃は自分の口を塞いで頷く。ようやく見られた寿々乃の笑顔に、ゆら子も思わず笑みをこぼした。
「今日もお茶しましょ」
「うんっ……!」
夕食が乗ったお盆を寿々乃に預けたゆら子は、慣れた手付きで窓を越えた。つっかけを窓枠に残すのもお手の物だ。
離れは和室だが、本邸の多くの部屋は洋室になっている。それは寿々乃の部屋も例外ではなく、敷き詰められた毛の長いカーペットはいつも通り着地の衝撃と音を和らげてくれた。
預けたお盆は机の上に置かれており、お茶の準備も普段と変わりなく整っていた。ゆら子はそこに持参した湯呑を付け足すと、これまでと同じようにひとつしかない椅子に腰かける。お茶を注ぎ終わった寿々乃は、その対面にあるベッドへと腰かけた。
「……あのね、さっきのことなんだけど」
元々声を張って喋る方ではない寿々乃の言葉はいつも以上に小さく聞き取りにくかったが、ゆら子には何の話題か理解出来た。
離れの前で寿々乃としず代に会った時に取り上げられた梅の枝のことだろう。
ゆら子の脳裏に、厨の竈前に残された丸い花びらがよぎる。伯母に見つかった時点で、あの梅の枝が燃やされてしまうことなど、わかりきっていたことだ。
箸をおいたゆら子は、俯く寿々乃の肩に手を置いた。
「寿々ちゃんのせいじゃないよ」
「ううん、私のせいよ。……私、いつも余計なことをして、みんなダメにしてしまうの……」
「余計なこと?」
「……今日は、お夕食の席にお父様もいらして、ね……『仏壇に梅の枝を供えたのが誰か』ってお聞きになったの」
ゆら子は、ひとつ瞬いた。
てっきり、しず代が捨てたか、彼女が使用人に捨てさせたのだと思ったが誤解だったらしい。偏見だったことを認めたゆら子は、心の中で伯母に謝罪した。
「でも、誰も何も言わないから、私……」
ゆら子は、消えてしまった言葉の続きがわかった。
梅の枝を用意したのがゆら子だと知った伯父が燃やすように言ったのだろう。彼は、ゆら子が母親に関わることを良しとしていない。
「伯父様が気難しいのは今に始まったことじゃないでしょ? 気にしないで」
「けど、私が……こんなだから、何もかも上手くいかないのよ……お父様が私に無関心なのも……お母様がいつも暗い顔をなさっているのだって、そう……お見合いだって……」
「そんなこと言わないで」
櫻木宗一郎は、妻にも娘にも大して興味がない。
邪魔にならなければそれでいいと思っている。関心があることといえば、妹とそれによく似た姪に対してだけだ。
ゆら子は、伯父について、自分を嫌っていることや寿々乃たちに対する態度、母や姉に向けていたものくらいしか知らないが、寿々乃にとって良い父親ではないことは理解していた。
そして、伯母が思わぬところで親切心を出してくれたことにより、今になってようやく彼女についても想像を巡らせることが出来た。
櫻木宗一郎は、しず代にとって良い夫ではないのだろう。
彼女がいつもピリピリとしていて気難しいのはそのせいだ。寿々乃に厳しく、ゆら子を嫌っているのも、おそらくそこから来ている。
「でも、お父様が私をお嫌いなのも、全部私の要領が悪いからよ……せめて愛嬌があったらって、お母様も……」
尤も、だからといって寿々乃に当たっていいわけではない。
ゆら子は、なんとか自分を抑え込むことで悲しみに見える程度に表情を留めることに成功した。この繊細な従妹の前で、怒気を見せれば怯えられてしまうからだ。
母や姉に守られていたゆら子と違って、寿々乃を守ってくれる人はいなかったのだろう。
そのことにゆら子が気付いたのは四年前。姉が失踪した後のことだった。まさか、本邸に住んで、良い食事を貰い、綺麗な着物を着せられてる従妹がそんな目に合っているとは夢にも思わなかったのだ。
一体、この邸で幸せに暮らしている人はいるのだろうか?
「伯母様の言うことをあまり真に受けてはダメよ。少し……そうね、神経質な方だから」
「……うん」
慰めの言葉が、気休めにもならないことをゆら子は知っている。寿々乃の心に刻まれた傷は深い。深くて、ゆら子には塞げない。
例えば、櫻木家は古くからある家で、前の時代から重宝されてきた。地位があり、名誉があり、財があった。でも、新しい時代になった今ではただの古臭いだけの一族になりつつある。かつての栄光は、少しの地位を約束したが、時代に乗れないままのこの家の財はかつてとは比べようもない程に減少した。価値観も変わり始めている今、在りし日の名誉も薄れつつある。
だから、寿々乃の縁談もまとまらない。
もし、歴史の浅い新興の資産家との縁談であれば別だっただろう。
しかし、寿々乃の両親は、古くからある名家との縁を望んだ。他の旧家も似たような状態がほとんどだというのに、跡取りとなる娘婿には古くからの良家が望ましいと思ったらしい。
だが、そのことを懇切丁寧に説いたとしても寿々乃には伝わらないだろう。最後にはどうしても「でも、私の出来が悪いから」。そこに集約してしまう。
長い間、その価値観を訂正する者はおらず、ゆら子には言葉以外で説得する方法がなかった。
「私も、来年は卒業なのに……このまま縁談がまとまらなかったら、櫻木家も……」
良家の子女は、遅くとも女学校の卒業までには嫁ぎ先か、婿入りしてくれる相手が決まる。最近は少なくなってきたが、少し前までは縁談がまとまれば女学校を中退して結婚してしまうのが当たり前だった。同級生は学年が上がるごとに減っていき、最終学年まで残ると行き遅れと言われてしまう。
ゆら子は、届かない言葉の代わりに、寿々乃の隣に移って手を重ねた。外から来たはずのゆら子より、寿々乃の手の方が少しだけ冷たい。驚いたように強張ったのは一瞬だけで、寿々乃はすぐに力を抜いて受け入れた。
「……ゆらちゃんが羨ましいって言ったら怒る?」
「怒らないよ」
「私もね、この家から出たいの……でも、そんな勇気はないし……いっそのこと、――――」
思わぬ言葉にゆら子は、息が止まる思いだった。
普段の寿々乃からは信じられない言葉に、思考が止まる。
「あっ……ごめん……こんなこと、言うべきじゃないよね……」
「本当に、そう思うの?」
「……えっ? そんなことは……痛っ」
そっと握られていたはずの手を、逃がさないとばかりに押さえつけられて寿々乃は小さく悲鳴を上げた。しかし、ゆら子の力が緩むことはない。いつも、柔和な笑みを向けてくれる従姉が初めて見せる真剣な表情に、寿々乃は恐怖を覚えた。
きっと、今の言葉がとても悪いことだったから、失望させてしまったのだ。
「寿々ちゃん、本当にそう思っているの?」
「わ、私……そんなこと本当は思って……」
嘘だったことにしようと思った気持ちが消えたのは、ゆら子から向けられた視線がこれまで誰からも向けられたことのなかったものだったからだ。
「……思ってる、思ってるよ」
寿々乃はこれまで一度も、誰かから意志を問われたことがなかった。
父は寿々乃に興味がない。
母は……寿々乃を信じていない。
だから、誰も寿々乃に意見を求めなかった。
「こんな家、
「どうして?」
静かに問うだけのゆら子は、事の善悪を問わなかった。ただ、寿々乃の気持ちを聞いているだけ。そのことに気が付ついてしまえば、久しぶりに涙が零れた。
いつの間にか、そっと握られるだけに戻っていたゆら子の手に空いている方の手を重ねる。手の甲はゆら子の方が冷たかった。
「私……いつも俯いてばっかりだけど、何もかも無くなっちゃったら、もう俯いていられないでしょう? 周りを見ないといけなくなるから……前も向ける、かなって……」
だんだん気恥ずかしくなってきた寿々乃が、呆れられてないかとゆら子の顔を伺うと、従姉は狐につままれたかのような間の抜けた顔をしていた。
「ゆら、ちゃん……?」
「その気持ちを……前を向きたいっていう気持ちを、忘れないでね」
何故、ゆら子が今にも泣き出しそうな顔で笑うのか、寿々乃にはわからなかった。
でも、とても大切なことのような気がしてしっかりと頷く。頷けば、いつもの優しい瞳が寿々乃を見ていた。
今度は間違えずに済んだのだと理解した寿々乃は、ようやく笑みを浮かべることが出来た。
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