【参】家族と思い出

 ゆら子たちに与えられた離れは、ふすまで仕切られた二間と玄関の横にかわやなどの水回りがあるだけの簡素な造りになっている。母と姉がいた頃から、彼女は玄関に近い方の一間を居間として使い、奥のもう一つを寝室として使っていた。

 伯父夫妻に疎まれているゆら子は、本邸に入ることを禁じられていたが、くりやだけは例外だった。離れには台所がなく、食事は本邸の厨に取りにいかなければならないからだ。ゆら子のために使用人を割くことを嫌がった伯母達の取り決めに矛盾を感じながらも、ゆら子は受け入れていた。どうせ、この生活も卒業と共に終わるし、何より内緒の楽しみがあるからだ。


「……ただいま」


 暗い室内から帰って来る声はない。

 少し前であれば、病のせいで顔色が悪い母が細い声で迎えてくれたのだが、今はもうそれもなかった。


 静寂の中、居間に明かりを灯したゆら子は、時計を横目で確認する。

 今頃、本邸では夕餉を取っている頃合いだろう。ゆら子の夕食は、伯父たちが食べた後に残ったもので用意されるから、取りに行くにはまだ早い。

 そのことを確認してから、木で出来た大きな戸棚の一番下を開いた。


「今日はね、梅が満開だったよ」


 引き戸の中には、二つの位牌が祀られている。

 一つは、ずっと前に亡くなった父のもの。

 もう一つは、先日亡くなったばかりの母のもの。

 どちらも、素人が木片を削って作ったことがわかる粗末なものだ。


 ゆら子の父と母は駆け落ちをしていた。

 良家の子女である母と、しがない農村の青年だった父。二人の関係は認められるわけもなかった。

 一等強く反対していたのは、母の兄である櫻木宗一郎だ。生まれつき身体が弱かった妹に対して過保護だったという彼にとって、妹の恋は到底許せるものではなかったのだろう。

 

 しかし、彼は妹の恋路を許さなかったが、行き場を失った妹が帰って来ることはあっさりと受け入れた。より正確にいうのならば、ゆら子の父が落石に合って死んだ後、駆け落ちのことを水に流して櫻木家に戻って来られるように宗一郎自身が取り計らったのだ。更に、姪二人を櫻木家の一員として受け入れ養育すると決めたのも彼だった。

 一連の行動は世間から見れば、妹想いで情の厚い人物のそれだったのだろう。宗一郎の決断は世間では評判が良く、彼の名声を高める結果に繋がった。

 しかし、当の妹は兄の行動を紳士的で高潔なものだとは捉えなかった。

 櫻木家に戻されてから体調を崩したゆら子の母は、最期まで自分の兄を恨んでいた。

 理由はいくつかあるが、愛する夫を弔うことさえ許されなかったことも、その一因だろう。


 だから、父の位牌は娘であるゆら子の姉春子が、非業の死を遂げた父と意気消沈している母のために作ったのだ。故にこの位牌には戒名がない。生前の名前と没年、生年月日が記されているのみだ。

 母の位牌は、姉に倣ってゆら子が作った。本邸には高名な僧によって授けられた戒名が記された立派な位牌が安置されているが、法事の時でもなければゆら子は目にすることすら叶わない。

 そんなゆら子自身の事情もあったが、彼女としては何よりも両親を共に並べてあげたかった。焦がれ合いながらも引き裂かれたふたりなのだから、娘としてそれくらいはしてあげたかった。


 床に行儀悪く座り込んだゆら子は、袖の中から梅の花を三輪、取り出した。

 たくさんの花を付けた枝には敵わないが、僅かに優しい香りが漂う。


「少しだけ、おすそ分け」


 父との思い出はないに等しい。

 四つ年上の姉と違い、父と死別した時のゆら子は本当に幼かった。

 顔を覚えているかすら怪しい。ただ、ゆら子自身にその面影があるとは何度も聞かされ、鏡の中に父の影を探したことは、幾度となくあった。


 母との思い出もあまりない。

 駆け落ちした先の村で暮らしていた時は元気だったというが、櫻木邸に戻されてからはずっと臥せっていた。離れの外に出ると伯父や伯母に嫌な顔をされるゆら子を手元に置いて、家族で過ごしていた日々のことを聞かせてくれたが、それはゆら子の思い出ではなく、遠い場所で起こった物語を聞くのに等しかった。


 では、姉との思い出はどうだろう。

 櫻木春子。ゆら子にとっては、たったひとりだけの血を分けた姉。

 ゆら子は、考えることを少し躊躇った。

 幼い頃から四年前に姉が失踪するその日まで、ゆら子は彼女の背中をずっと追っていたように思う。器量が良くて器用でなんでも出来るゆら子の目標だった――そう“だった”人。

 姉がいなくなった時と同じ年齢になったゆら子は、その憧れが正しかったのかわからなくなっていた。


 位牌の奥から、手作りの将棋盤と駒を取り出す。一緒に置いてあった春子お手製である詰将棋の問題集が反動で床へと落ちる。さらにそこから挟まれていた紙が床へと舞ったが、ゆら子は内容を確かめることもなく、問題集の一番後ろへと戻した。

 父が手遊びで作ったという将棋盤と駒で、ゆら子と春子はよく遊んでいた。ゆら子に将棋の指し方を教えてくれたのは春子だ。手加減してもらって駒落ちで勝負したとしても、ゆら子が春子に勝てたことは一度もない。春子が上手だったこともあるが、ゆら子はどうにも向いていなかった。

 だから、二人がもっぱら楽しんだのは詰将棋だ。序盤指しが苦手なゆら子だが、答えを見つけるこの遊びは何故か上手かったのだ。

 ゆら子は残された問題集を開いて、手の中で弄んでいた駒を、人生で一番最初に解いた局面と同じように並べる。単純な一手詰めの問題だったが、懐かしさに勝るものはない。


「……ねぇ、お姉ちゃん」


 伯父は、母親によく似た――否、生き写しともいえる春子を可愛がっていた。実の娘である寿々乃よりもずっと大切にして愛情を注ぎ、春子が不自由しないように尽くしていた。

 そのことをよく理解していた春子は、伯父の愛情を利用してゆら子にいろいろなものを与えてくれた。今、女学校に通えているのも春子のおかげだし、卒業したら櫻木家を出られるようにしてくれたのも春子だ。

 過去に想いを馳せながらも、ゆら子の指先は、二番目に解いた問題、三番目、四番目、五、六・七・八・九……と駒を並べては解いていく。


「梅の枝を取ってくれた人はね、とても親切だったよ」


 過去をなぞるだけのその行為は、記憶力の良いゆら子にしてみればとても簡単なものだった。

 だから、姉の残した言葉は全部覚えていた。その時の表情は……少し怪しい。女学校の卒業を間近に控える年になったゆら子には、記憶の中にいる姉の表情に自分の感情が混じっていることを否定出来ない。


「私は、どうすればいいのかな……」


 次の問題を解こうと盤上から手に取った“歩兵”をじっと見る。

 もし、ゆら子を将棋の駒に例えるなら“歩兵”だろう。最も数が多く、もっとも弱い駒。

 でも、使えないわけではない。

 突き歩詰めで、問題を解いたゆら子は、片付けにかかった。

 再び、問題集に挟んでいた紙が零れ落ちる。春子に与えられた最後の問題は、ゆら子の記憶通りに並んでおり、解かれるのを待っていた。

 逡巡したゆら子は、その紙だけを残して片付けを再開する。

 少し感傷に浸り過ぎたらしく、夕食を貰いに行く時間になっていた。

 両親に手を合わせて、一番下の戸棚を閉めたゆら子は、別の戸棚を開いて一番きれいな湯呑を懐へしまう。


 もう一度、取り残された紙をじっと見つめたゆら子は、見なかったことにして明かりを消した。

 僅かに残った光の余韻も、すぐに暗闇が埋めてしまう。そこには、なんの気配もない。

 結局、過去に問いかけることは無意味で愚かしいことなのだ。先程の答えを諦めて、ゆら子は離れを後にした。

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