【弐】櫻木家での立場

 手折ってもらった梅の枝を抱えたゆら子は、帰り道を急いでいた。

 幼くして父を亡くしたゆら子は、母の生家である櫻木家に身を寄せている。その母も先日――冬の寒い日に病で亡くなり、四歳年上の姉・春子はるこも行方がわからないため、ゆら子の名目上の保護者は、伯父の櫻木宗一郎そういちろうだということになっていた。しかし、この伯父はゆら子にほとんど関心がない。父親によく似ているらしいゆら子を憎んでいるといってもよかった。

 だから、帰りが遅くなったからといって心配されることはなく、見つかったとしても冷たい目で見られるだけだろう。

 面倒なのは、宗一郎の妻であり、ゆら子の伯母であるしず代の方だ。

 夫の妹とその娘たちを、厄介な居候だと思っている彼女は何かとゆら子たち母子を目の敵にしていた。そして、彼女の標的はもっぱらゆら子だった。ゆら子の母や姉を非難すると宗一郎が出てくるが、ゆら子であればどんな扱いをしても咎められることはないからだ。


 ゆら子は足を速めた。

 彼女が現在住んでいる櫻木邸は、古くからの名家が連なる家並みの真ん中辺り、その良くも悪くもない場所にある。まだ羽振りが良かった頃に改装を施していたので、和と洋が入り混じった流行りの造りを取り入れた邸だ。

 櫻木邸はもう見えていたが、ゆら子は正面からは入らずに裏口へと回る。彼女に与えられていたのは、隅にある離れであったし、この方が人と会わずに済むからだ。

 

「随分早いご帰宅ですこと」


 夕闇に紛れて帰り着いたゆら子の目論見は、もう少しのところで水泡に帰した。

 離れの入口で、自身の娘を引き連れたしず代が待ち構えていたからだ。おそらく、使用人の誰かに裏口を見張らせておいたのだろう。


「これだから山育ちは……。十数年は立つというのにまだ櫻木家に引き取られたという自覚がないのかしら? 貴方がそんな風だから、寿々乃すずのにも迷惑がかかるのよ」


 わざとらしくしず代が嘆息する。

 嫌われているとはいえ、わざわざ離れまで来て嫌味を言うのはらしくない……とゆら子は思ったが、伯母の後ろで泣きそうな顔をしている従妹を見て理解した。どうやら、この年下の従妹のお見合いは、今日も上手くいかなかったらしい。

 伯母がやってきたのは八つ当たりのためだろう。

 母の後ろに従わされ、そろそろ泣き出してしまいそうな従妹の寿々乃にだけわかるよう、小さく首を振ったゆら子は、神妙な表情を作る。


「申し訳ございません、伯母様。ご迷惑をおかけするつもりはありませんでした」

「ふんっ、卒業後と言わず今すぐ出て行ってほしいわ。貴方達が来てから碌なことがないもの。ねぇ、寿々乃」

「……あっ、えっと……私?」

「いつまで経っても鈍い子ね。貴方がそうだからまとまるものもまとまらないのよ。はっきり返事をなさい」

「は、はい、お母様……」


 涙をこぼしてしまわないのが不思議なくらい瞳を潤わせて寿々乃は俯いた。

 視界の端で行われる見慣れたやり取りに、ゆら子は内心で嘆息する。慣れているとはいえ、見ていて面白いと思ったことは一度もない。


「伯母様、そろそろ冷えて参りましたので中に入りませんか? 粗茶ですが温かいものをご用意いたします」

「結構よ。……それは?」

「母の仏前に供えようと思いまして……」


 袖の陰に隠し持っていた梅の枝を見咎められたゆら子は、伯母の前にそれを差し出した。

 “梅”に関するもの全てを憎んでいるしず代は、露骨に不愉快を示す。受け取るというよりは、奪い取るという方が正しい方法で梅の枝をゆら子から取り上げたしず代は、僅かに残っていた陽光に花をかざした。

 今日最後の光は赤く枝に当たり、花を形だけの影にしてしまう。作り物めいているのに確かに香るそれが、しず代には不気味に迫って見えた。


「……殊勝だこと。でも、貴方は本邸に入れないでしょう。わたくしが代わりに供えておいてあげます」

「お心遣い感謝いたします、伯母様」


 頭を下げるゆら子を見て、しず代はようやく満足したようだ。

 きっと彼女は、ゆら子を出し抜けたと思っているのだろう。親切を施されるに値しない図々しい居候に、意趣返しが出来たと冷たいままの顔の下で喜んでいる。少なくとも、ゆら子の目にはそう映った。


「早めに荷物をまとめておきなさい。卒業までなんてあっという間よ」

「はい。何から何までお気遣いいただきありがとうございます」


 踵を返してさっさと去って行くしず代の後を、寿々乃が何度も振り返りながらついていく。

 不安そうな従妹に微笑みかけて、その姿が見えなくなるまで見送った後でゆら子も離れに入った。

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