【壱】梅が咲いたから
蒸気機関車が主要な都市を繋ぐようになってから十数年、移り変わる時代に置いていかれないよう人々の生活も少しずつ変化していた。
特に首都では、その進みは激しい。
変化に戸惑い嘆くこともあれど、それでも往々にして人々は浪漫ある時代を謳歌していた。
そんな首都の終わり、人里と野山の境界線にある橋からは、少し離れた丘の上に立つ一本桜が良く見える。まだ咲くには少し早く、人里を見下ろしながらまもなく訪れてる春を一本桜は待っているのだ。
今、季節を支配しているのは梅の花だった。境目の朱塗りの橋の両側に植えられた梅は最盛期を迎えており、数多の花を揺らして風と遊んでいる。
だが、それは人の手が触れることを許さない。
なんとか一枝だけでも得ようと少女は橋の上から手を伸ばしていた。海老茶色の袴から茶色のブーツを覗かせて頑張っているが、成果は芳しくないなさそうだ。相変わらず風と戯れている梅の枝は、暗い色の着物を着た少女の指先から逃れて遊ぶばかりだった。
数度挑戦した後、女学校帰りの少女――
少女の浅はかな行いは、すぐに結果を表した。
「あっ」と思った時には既に遅く、重心がずれた体はバランスを欠いて橋の下へと傾いてしまう。梅の花ばかりを映していた視界に、緩やかに流れる水面が映り込んだ。背丈の倍以上の高さから落ちれば、無事ではすまない。それも、頭からであれば……
もはや自力で助かるすべはなく、唯一出来たことといえば固く目を瞑ることだけだ。
しかし、ゆら子を襲ったのは川面ではなく、自身を引っ張る強い力だった。反対側に傾いた体は、地面に叩きつけられることなく柔らかいものに支えられる。
「何をしているんだ! 危ないだろう」
「……あっ」
息を切らせている青年に叱られて、ようやくゆら子は固く閉じていた目を開けた。
近頃男性では珍しくなくなった
「大丈夫かい? 怪我は?」
「……大丈夫、です」
呆然としたままのゆら子が途切れがちに答えると、青年は人の良さそうな顔に安堵の色を浮かべた。そうしてから、ようやく橋の上に座り込んでいることに気付いたのか、照れくさそうに笑って立ち上がる。
同じく座り込んでいたゆら子に手を貸したあとで、彼は離れたところに落ちていた帽子をかぶりなおした。
「どうしてあんなことを?」
青年が帽子を拾っている間に、袴の埃を払って居住まいを正しておいたゆら子は頭一つ分近く高いところにある彼の顔を見上げた。改めて見ると、彼の佇まいからは身形の良さだけでなく育ちの良さも見て取れる。年齢は、ゆら子より上――今はいない彼女の姉と同じか少し上くらいだろう。
気まずさ故に彼から視線を逸らしたゆら子は、言い訳がましく聞こえるのを承知で呟いた。
「母に……死んだ母に持って帰りたかったのです」
思わぬ事情が飛び出して言葉を詰まらせる青年ではなく、梅の花に移していた視線を徐々に下へと下げていったゆら子は、ちらりと青年の様子を伺った。その様子は、叱られることがわかっていて、それを避けようとする子供のようだ。
「母は、梅の花が好きだったので……」
ゆら子は、誤魔化すかの様に一度閉じた口を小さく開いて言葉を重ねた。だが、それを以てしても言い訳じみていることに変わりはない。
怒られるのを覚悟してか、ゆら子は身を縮こまらせたが、彼女が叱られることはなかった。
ただ沈黙だけが流れる。
しかし、助けてくれた青年が呆れて立ち去った気配はない。
所在なさげに自身の編み上げブーツを見つめるだけだったゆら子は、自身に影が落ちたことで顔をあげた。
白くて丸い花びらがふわりと舞う。そこには、求めていた梅の枝があった。
「もう危ないことをしてはいけないよ」
「……これ」
まだ信じられないと言いたげにしているゆら子の手に、梅の枝が渡る。
手折られたばかりの梅の枝から放たれる香りにくすぐられて、ゆら子は笑みをこぼした。遠い記憶もくすぐられて、もう忘れてしまった顔が浮かび上がったのだ。僅かな思い出と、輪郭だけの面影であっても、消えずに残っている家族が――
「じゃあね」
言葉だけを残して去って行く青年の後ろ姿をゆら子は頭を下げて見送った。
もらったばかりの梅の枝をそっと抱きしめて。
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