蒼海に馳せる

かかえ

 海鳥の騒がしい声が聞こえている。

 鮮やかな青空に浮かぶ太陽は、いつにも増して強烈だった。色濃い葉影を落とす樹の下から離れた途端、服からはみ出した腕や膝が容赦ない熱波にさらされる。

 ちりちりと肌が焼かれていく感覚があるが、気にはならない。この島で生まれ育った人間にとって、照りつける日差しは生活の一部だ。辺りに漂う潮の香りのように、やむことのない波音のように、あるのが当たり前のもの。主張の激しい光をにらむように見上げたあとで、イルはその場から駆け出した。

 彼が暮らしている集落は、海との距離がとても近い。木の壁に草の屋根が乗った素朴な家々のあいだを抜けると、すぐに白砂の広がる浜へ出る。

 昼中の砂浜にはほとんど人がいない。日が昇って間もない頃なら漁をする大人たちで賑わうが、この時間帯に見かけるものといえば、おこぼれの小魚をついばむ海鳥の姿ばかり。甲高い鳴き声が響く波打ち際を横切りながら、行く手に目を向けたイルはわずかに顔をしかめた。

 目指すは穏やかな水面に突き出した桟橋の先。

 そこに座ってぼんやりしている幼馴染みの視線を、この日もまた、海から引き剥がしてやらなければならないのだ。

 板を連ねて造られた長い桟橋を大股で突き進み、先端の手前で立ち止まる。

 足音が聞こえていたはずなのに、相手はこちらに背を向けたままだった。あまり良い気はしない。イルは唇を尖らせてから、腰に手をあてて声を張った。

「フアン!」

 呼びかけに驚いた素振りを見せることもなく、相手はおもむろに振り返った。よく日焼けした顔に笑みを浮かべて、彼はのんびりと口をひらく。

「やあ、イル。どうかした?」

「どうかした、じゃないだろ。おまえが干物になる前に呼びにきてやったんだよ」

「そっか。ごめん」

 困ったように笑うフアンの様子がますますイルを苛立たせた。謝るくらいなら最初からやるな。そう言ってやりたい気持ちを深いため息に代えて、ぷいと顔をそらす。

 最近のフアンはおかしい。

 以前は何かにつけてイルのうしろをついてきたものだが、いつの頃からか、彼はこうしてひとりで水平線を眺めていることが多くなった。

 果てしなく広がる海にはぽつりぽつりと小舟が浮かんでいるだけで、波もほとんど立っていない。何が楽しいのかイルにはさっぱりわからない。

「こんなの毎日飽きるくらい見てるのにさ。目をつむってたって思い出せる」

 しかめっ面のままつぶやくと、フアンがすぐさま反応した。

「そんなことない」

 思いのほか強い口調でそう返されて、イルは目を丸くする。フアンは再び海のほうへ向き直り、明るい声で言葉を続けた。

「同じように見えるかもしれないけど、全然違うんだ。一秒ごとに必ずどこかが変わってる。飽きたことなんかないよ」

 静かな風が、肩まで伸びた彼のうしろ髪を優しく揺らしている。

 見え隠れするうなじに視線を向けたまま、イルはしばらく声が出せなかった。腹の底から沸いてくる、わけのわからない焦りのようなものを、どうにか抑え込むだけで精一杯だった。

 イルとフアンは幼馴染みであり、家族でもあった。

 生まれて数年で孤児となったフアンをイルの両親が引き取って、以来同じ屋根の下でともに暮らしている。

 今年で十三になったフアンのほうが歳はひとつ上だが、あまり気にしたことはない。普段からフアンはのんびり屋で、どんなときでもにこにこしていて、イルがそばにいてやらないと何もできやしない。どちらかといえば、弟みたいだと思っていた。

 だから、少し驚いたのだ。急に大人びたことを言い出したから。

「……物好きなやつ。ほら、いつまで座ってるんだよ」

「うん。ごめん」

「謝るのやめろ」

 振り返って笑う相手をにらみつけながら、立ち上がらせるために片手を伸ばす。

 いつもと同じく握り返されたことにイルは少なからず安堵して、そんな自分が何故だか無性に腹立しく思えた。


       *


 玄関の扉をあけると、まずは小さな弟妹たちが飛びついてきて、そのままもみくちゃにされる。

 ある程度フアンとふたりで構ってやってから、足にしがみついたまま離れない弟を重りのように引きずりつつ奥へ進む。

 島に暮らす大多数の家庭がそうであるように、屋内の造りはいたって単純だ。

 ひとつの部屋が台所も居間も兼ねていて、寝室だけが別にある。中央に机。干した魚が吊り下げられた天井と、漁で使うための銛が飾られた壁。

 年季の入った板張りの床は吹き込んだ砂でざらざらしているが、十二年も暮らしていれば今さら不快に感じることはない。

「あらおかえり。ねえ、帰ってきたところで悪いんだけど、裏山まで行って枯れ枝を拾ってきてくれない? 切らしてるのすっかり忘れてて」

 鍋をかき回していた母親が振り向きざまに言うのを聞いて、イルは思い切り顔をしかめた。

「ええ、やだよ。父さんにでも行かせろよ」

「父さんは父さんで忙しいの。あんたたちに頼むしかいないのよ」

 姿の見えない父親は、おそらく寝室にいる。寝るためではない。誰にも邪魔されない場所で網の手入れをするのが彼は好きなのだ。

 扉の向こうで黙々と没頭している父親の姿を想像すると、てこでも動いてやるものかという気分になる。

 そんなイルのささやかな抵抗を、しかしフアンのひと言が台無しにした。

「わかったよ母さん。イル、いこう」

 勝手に了承してしまった幼馴染みに抗議するより先に、母親が芝居がかった声を出す。

「まあ。フアンは本当にいい子ねえ。どこかのやんちゃ息子とは大違い」

「はいはいわかりましたあ」

 半ばやけになりながら、イルは再び家を出た。フアンがうしろからついてくる気配を感じていたが、振り返らない。

 集落の裏手には青々と樹木が茂る大きな山がそびえていて、生活で必要なものは大体ここで手に入れることができた。薪に適した乾いた枝もいたるところに落ちている。

「あー、めんどくさ。よしフアン、適当に拾ってさっさと帰るぞ」

 言葉通り適当に足を使って枝を集めつつ、イルは手近な樹から柑橘をもぎ取った。すぐそばで地面にしゃがみ込んでいたフアンのほうへ、何も言わずに投げてやる。

 うまく受け取れずに慌てる様子を見て少し笑ってから、自分用に取った実の黄色い皮を大雑把にむいた。

 果汁のついた指をひと舐めして、小さく息を吐く。

「早く大人になりたいなあ。そしたらこんな雑用なんかしなくてもよくなるのに」

 顔を上げると、鬱蒼とした枝葉が昼下がりの空をまだらに隠していた。明るい木漏れ日がちかちかと揺れている。

「毎朝海に出て、たくさん魚を捕るんだ。銛突きの腕ももっと磨きたい。今でも結構自信あるけどさ。それで、いつか自分の子どもと一緒に漁に行ってさ、父さんすげー! って言わせてやんの」

 話しているうちに楽しくなってきて、イルは思わず頬をゆるめた。

 日々の生活は決して楽なものとは言えないが、豊かさに憧れたことは一度もない。両親や他の者たちと同じように、この島で死ぬまでのびのびと暮らす。それが己の生き方だと、そうなることが一番の幸せなのだと、イルは疑うことなく信じてきた。

「いい夢だね」

「だろ? すぐ現実にしてやるからな。見とけよ」

 薄皮に包まれた実をひと房ちぎって口に放り込む。噛むほどに広がる瑞々しい酸味を堪能していたイルの耳に、フアンの躊躇いがちな声が届いた。

「イル、ぼくは――」

 しかし最後まで言い切らないうちに、別の声が邪魔をする。

「おーい、おまえら。ふたりで仲良く薪拾いかあ?」

「いいよなあ、ガキは。暇そうで」

 近所に住んでいる悪童ふたり組だ。イルよりも歳がいくつか上なだけの彼らだが、最近大人とともに海に出ることを許されてからというもの、何かにつけて見下した態度を取ってくる。

 確かに向こうのほうが背が高いし、体つきも悔しいほどに立派だ。だが、だからといって馬鹿にされるのは腹が立つ。

「うるさい、あっちいけ!」

 ありったけの敵意を込めて言い放つと、彼らはげらげらと笑いながら去って行った。イルは顔をしかめたまま、隣のフアンに視線を移した。

「まったく。というかおまえもなんか言い返せよ。言われっぱなしで悔しくないのかよ」

「でも、本当のことだから。もしあの人たちと喧嘩になっても、絶対にぼくじゃ敵わないと思う」

「俺だって力であいつらに勝てるとは思ってないよ。なんというかこう、心の持ちようの話っていうかさ」

 イルは深々とため息をついてから、足もとで山になっていた枯れ枝に手を伸ばした。雑にまとめて小脇に抱え、その場を離れようとしたときだ。

「あのさ!」

 上擦った声に背後から呼ばれて、驚きとともに振り返る。

 目が合うとフアンは一瞬怯んだように息を飲み、視線をおろおろと左右に揺らしたが、最後には真っ直ぐこちらを見つめて息を吸った。

「ぼく……ぼくは、いつかこの島を出たいと思ってる。もっと広い世界をこの目で見て、肌で感じて、新しい物事をたくさん知りたいんだ」

 強張った表情。突然の告白を受けてうまく思考が働かない。イルは何度か目をしばたたかせたあとで、どうにか掠れた声を出した。

「どうした、急に……」

「さっき、君の夢を聞かせてもらったから。ぼくの夢もイルに聞いて欲しくなって」

 尻すぼみになっていく言葉を聞きながら、再びうつむいてしまったフアンをまじまじと見る。

 彼にそんな願望があったとは初耳だが、それでようやく合点がいった。このところ海ばかり眺めていたのはそのせいか。

「ふうん。いいんじゃないの?」

 なんと返せばいいのかわからず咄嗟にそう答えると、フアンが気の抜けたようなふにゃりとした笑顔を見せる。つられてイルも小さく笑った。

 きっとこのまま笑い話として流れるのだと、いつまでも振り返れば彼がいるものだと、根拠もない確信を抱きながら。


       *


 その日、集落は朝から祭のような賑わいを見せていた。

 浜辺には一隻の巨大な木造船が横づけに停泊している。普段の漁で使用する、丸太をくり抜いただけの舟とは何もかもが違った。丸みのある船体に広い甲板。帆の折りたたまれた三本のマストは、見上げると首が痛くなるほど高い。

 降りてきた船乗りたちが浜で荷物を開封するたびに、集まっていた集落の住人から明るい歓声が沸き起こる。

 次々と並べられていくめずらしい食べ物や貴金属。それらを前にして誰もが目を輝かせている様子を、少し離れたところから、筋骨隆々な壮年の男が満足そうに眺めていた。

「さあ、持ってけ持ってけ! 次に寄るのはいつになるかわからんぞ!」

 男の名はロド。停泊している木造船の持ち主であり、海から海へと渡りゆく大商人である。

 かつて嵐で遭難しかけていた彼らを集落総出で助けた縁で、たまにこうして島に立ち寄り、大量の物資を譲ってくれる。前回はイルが八歳になったばかりのときだった。四年ぶりに活気づいた島の光景は、見ているだけでも心が踊った。

「すっげーな! なあフアン!」

 イルは興奮冷めやらぬまま、隣に立っていた幼馴染みに話を振る。返ってきたのは、凪いだ海のように静かなつぶやきだ。

「うん。本当にすごい……」

 フアンが見ていたのは、品物の並んだ浜辺ではなく、波に揉まれて軋んだ音を立てる巨大な船のほうだった。

 彼の興味はやはり、島よりも海に向いているのだ。そのことを今になって改めて思い知り、イルはわずかに動揺した。

 やがて太陽が真上を通り過ぎ、少しずつ浜から人々が離れ始めても、フアンはその場から動こうとしなかった。

 何度か声をかけてみたが、上の空な返事ばかりで会話にならない。いつもみたいにしばらく放っておくしかないかと諦めて、イルはひとりで浜をあとにする。

 彼が再び海辺へ戻ってきたのは、さらに太陽が傾いた夕刻間近。朝の賑わいが嘘のように、浜は閑散としていた。陽光がほのかに辺りを赤く染めるなかで、フアンは変わらず船を見上げる位置に立っていた。

 仕方ないなと肩をすくめてから、イルは彼のもとへ近づいていく。しかし、数歩進んだだけですぐに足を止めた。船の中からロドが現れるほうが早かったからだ。

「よお坊主。おまえ、ずっと船見てるなあ。そんなに気になるのか?」

 途端にフアンがぱっと表情を輝かせる。

「はい! いつかこういう船に乗ってみたいなって、ずっと憧れていたんです」

 弾んだ声。彼がこんなにもはきはきと話すところを、イルは一度も見たことがない。何年もともに暮らしているというのに。

 返事の勢いに押されたのだろうか、ロドは何度か瞬きを繰り返してから、一拍遅れて豪快に笑い出した。

「はっはっは! いい目をするなあ。どうせなら中も見ていくか。面白いぞ」

 思わぬ誘いにふたつ返事で答えたフアンが、ロドに連れられて船内へ入っていく。

 どちらにも気づかれないまま浜に残されたイルは、しばらく呆然と立ち尽くした。寄せては返す波音が、漂う静けさを埋めるように大きく響き渡る。

「……帰ろ」

 胸に渦巻く不安を払うように声を出してから、イルはきびすを返した。

 何も考えず、帰りを待っていればいい。フアンが戻ってくる場所はあの家以外にないのだからと、何度も己に言い聞かせて。


       *


 夜になって、ようやくフアンが家に帰ってきた。どういうわけかロドも一緒だ。

 暗いから送ってもらっただけではなさそうだと、ふたりの表情を見てすぐに察した。ロドといくつか言葉を交わした両親が、そのまま神妙な面持ちで彼を屋内に迎え入れる。

 イルも話の輪に入ろうと近づいたが、険しい顔をした父親がそれを拒んだ。幼い弟妹の面倒を見ておくようにという名目で、ほとんど強制的に寝室へと追いやられてしまう。

 扉をわずかに開けて盗み聞こうと試みたものの、いつもと違う雰囲気に高揚しているのか、弟妹がうるさくて会話がまったく聞こえない。遊び疲れたら寝るかと思い、構ってやることにしたのがいけなかった。幼い子どもの体力は無限だ。彼らが眠る頃にはイル自身も疲れ果て、気がつくと朝日が昇っていた。

 寝室を飛び出したイルは、家に漂う重い空気に息を飲んだ。

 両親とフアンが長卓に向かい合って座り、沈黙を続けている。ロドの姿はなかった。さすがに船へ戻ったのだろう。

 イルが起きてきたことに始めに気づいたのはフアンだった。勢いをつけて席を立った彼は、わずかに躊躇いながらも意を決したように口をひらいた。

「お、おはよう、イル。あのさ……」

 たどたどしく話し始めた内容はこうだ。

 明後日に出港するロドについていくことになったと。これからは彼の部下として、海の上で暮らすのだと。

 イルは口もとを歪めて短く笑った。ひどい笑い方をしていると、自分でも感じていた。

「なんだそれ。みんなして俺のことからかってんの? なあそうだろ、母さん」

「私も驚いたわ。だけど親として、フアンの夢を応援することにしたの。イルもちゃんと話を聞いてあげて。大事なことだから」

 母親の返した静かな言葉を聞いて、イルは喉を詰まらせる。机の上で指を組んだ彼女の表情はいたって真剣で、何を言っても揺るがない決意が感じられた。

 イルはすがる思いで父親のほうへ視線を向けたが、無駄だった。彼もまた、悩ましげに眉を寄せながらもきっぱりと言ったのだ。

「フアンの人生だ。父さんも反対はしない。それに、ロドさんがそばにいてくれるなら安心だろう」

 どうしてそんなに冷静でいられるんだ。イルは両手をきつく握り締めた。

 どうして、誰も止めようとしないんだ。

「そんな……そんなの、無理に決まってるだろ」

 引きつった口から、震える声がこぼれ出す。

「だって、フアンはいっつもどんくさくて、とろくて、俺がいないと何もできないじゃないか。俺がずっと引っ張ってやらないと、こいつは……」

 言いながら目もとが熱くなってきたのを感じ、ぐっと唇を噛んだ。両親も、フアンも、複雑な感情が込められた眼差しでイルのことを見つめている。

 もっと別の言い方が、この場に相応しい言葉が、きっとあったはずだった。だがそれを口にする勇気が、今のイルにはない。

 押し寄せてきた情けなさやら恥ずかしさやらで、頭がおかしくなりそうだった。居ても立ってもいられずに、イルは家を飛び出した。


       *


 行くあてもなくひたすら走って、裏山のふもとでようやく足を止めた。朝とは思えないほど強烈な日差しが、短い草の生えた地面をじりじりと照らしている。

 今になって裸足であることに気づいたが、どうでもよかった。地面の熱よりさらに熱い塊が、イルの胸のうちを焼いていた。

「おまえ、何してんだ。こんなとこで」

 そのとき、いつも馬鹿にしてくる悪童ふたり組が声をかけてきた。出会い頭に嫌味を言われなかったのは、イルから漂う荒んだ雰囲気を感じ取ったからかもしれない。

 のろのろと顔を上げると、訝しげな表情で見返される。

「ひとりか? フアンはどうしたよ」

 尋ねられた瞬間、持て余していた感情が音を立てて破裂した気がした。彼らは何も悪くないとわかってはいたが、気づけば地面を蹴っていた。

「うわああああっ!」

 雄叫びとともにイルは拳を振りかざす。しかし渾身の一撃は軽くいなされ、ついでに頬を殴られ、あっという間に地面へと転がされた。

「なんだこいつ。行こうぜ」

 気味悪そうにして去って行く彼らを目で追ってから、ため息と同時に脱力する。

 背中が熱い。頬がひりつく。それでも起き上がろうという気にはなれなかった。ぼんやりと空を眺めながら、無駄に時を過ごすことしばらく。聞き慣れた足音が近づいてくるのを耳にして、イルは顔をしかめた。

「イル!」

 わざと首を動かさないでいたイルを、フアンのほうから覗き込んでくる。

「それ、誰にやられたの? 大丈夫?」

 逆光で影になっていたが、わずかに震える声音から、彼がどんな表情をしているかすぐに想像がついた。まるで自分が殴られたみたいに、痛々しく顔をしかめているのだろう。

 どんなに突き放しても、どんなにからかっても、イルのそばには常にフアンがいた。いつだってイルの味方でいるし、嘘を言うこともない。だからこそ、もう止められないのだとわかる。

 フアンは本当に、ロドについていくつもりなのだ。

「……なんでだよ。ずっと島にいたって、面白いことはたくさんあるよ。なんで出て行くなんて言うんだよ」

 悪あがきのような言葉を口にして、イルは深く息を吐き出した。数秒の沈黙のあとで、弱々しい声が返ってくる。

「ごめん」

「謝るなって言ってるだろ」

 お決まりのやり取りを交わすと同時に、不思議と胸のつかえが消えていくのを感じた。

 どこにいたって、何をしていたって、フアンはフアンだ。

 束の間まぶたを閉じてから、イルは勢いをつけて半身を起こす。

「なあ。ロドさんと一緒にいくならさ、何年かしたらまた島に寄るんだろ」

「う、うん。たぶん」

「じゃあそれまでに、うんと漁の腕を磨いておく。島一番の銛突き名人になって、おまえをびっくりさせてやるよ。覚えとけ」

 にやりと口の端を上げてみせると、フアンは少し驚いた顔をしてから、こちらが恥ずかしくなるほどの明るい笑みを浮かべた。

「うん!」

 そこまで素直な反応をされるとは思っておらず、なんだか拍子抜けしてしまう。呆れていたイルの目の前に、そっと手のひらが差し出された。

「ありがとう。イル」

 いつもと逆だ。だけどそれもいい。まぶしく笑う幼馴染みを見上げながら、イルはその手を強く握り返した。


       *


 フアンは予定していた通り、ロドの船に乗って大海原に旅立った。

 彼がいなくなったことで住人たちに多少の動揺が広がったものの、それも日ごとに薄らいで、いつの間にやら平穏な毎日に戻っていった。

 島での暮らしに目立った変化はない。相変わらず日差しは強いし、海鳥もやかましい。家では幼い弟妹にもみくちゃにされ、親からは雑用を言い渡される。変わったのは、自分の隣に誰もいないこと。それから以前より海が特別な場所だと思えることくらいだろうか。

 この日もイルはひとりで浜辺に向かい、水面にせり出す桟橋の先端に立つ。

 そうして遠く広がる海の彼方へと、想いを馳せるのだ。


                   終

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蒼海に馳せる かかえ @kakukakae

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