第4話 慟哭
※この話は、「杏樹」の視点で書かれています。
私の目の前には、スーツ姿の健斗が立っていた。よりによって、私たちが別れた「しあわせ書房」の目の前で再会することになろうとは、夢にも思わなかった。
健斗と目を合わせるうちに、忘れかけていた昔の思い出の数々が突然頭の中に甦り、次第に呼吸するのが辛くなってきた。どれもこれも、思い出したくもないものばかり……呼吸が段々苦しくなり、私は耐えきれず、その場に座り込んでしまった。
「杏樹さん! 急にどうしたんですか? 顔色が悪いですよ」
椎菜が甲高い声をあげて私の元に近づき、心配そうに肩に手をかけてきた。
元はと言えば、全部あんたのせいなんだよ。
「な、何でも無いわよ。あっちに行ってよ! 」
私は椎菜の手を片手で振り払うと、よろめきながら立ち上がり、目の前に立っている健斗を睨みつけた。健斗は驚いた様子で徐々に後ずさりし始めた。
「杏樹、どうしてお前がここに? 」
「どうだっていいでしょ? あなたには関係ないわよ」
私は憎悪に満ちた言葉で健斗を一喝した。正直言って顔を見るのも、言葉を聞くのも嫌だ。
「元気そうだね。今日は本を探しに来たのか? 」
「まあね」
私はふらつきながら、雑誌が置かれたラックを掴みながらゆっくりと歩き始めた。
「少しお店で休んでいった方がいいですよ。そのままじゃまた倒れちゃいますよ」
椎菜はまだ心配そうに私を見ていた。
「私のことはいいから、早くどっかに行ってよ! あんたも、健斗も、二度と顔を見たくない! 」
私は顔をしかめながら、全身を振り絞って絶叫した。早くここから立ち去りたかった。椎菜も健斗も、絶叫する私を黙ってただ茫然と見つめているだけだった。
「どうしたんですか、片岡さん」
その時、店の奥から智哉が慌てた様子で駆け出してきた。
小脇に店で買い込んだ本を抱えながら、雑誌ラックにつかまって激しく息をする私と、それを茫然と見つめている椎菜と健斗を一体何があったのかという様子で見つめていた。
「片岡さん、僕の肩につかまって下さい。そのまま歩いていたら倒れちゃいますよ」
智哉は中腰の姿勢になり、細い腕で私の肩をそっと支えてくれた。頼りないその腕はしっかり私の身体を支え、私は何とか前方へ歩きだせるようになった。
「何があったんですか? 僕なんかでよかったら話してくれませんか? 」
智哉は私の目を見て、優しい口調で尋ねてきた。
「あの人には会いたくない、声も聴きたくない。早くここから立ち去りたい」
「あの人……? 」
智哉は背中を反らして、健斗に目を向けた。健斗は智哉から突然視線を向けられて驚き、気を取り直そうとしているのか、大きな咳払いをした。
「……あの時のお前はお前じゃなかったからだ。僕が好きだった杏樹じゃなかった。そんなお前と一緒にいるうちに、僕は段々疲れてきたんだよ」
健斗はそう言うと、私の方を見つめた。
別れてから一年近く経つけれど、まだそんなこと言ってるの? この人、私の気持ちを全然分かっていない。
「確かにあの頃の私は、ジムに通ったりして、いつもの私じゃなかったかもしれない。でもね、それもこれも、あなたのことが好きだったからだよ。私をもっと見てほしかったからだよ」
「それが疲れるっていうんだよ。あの時の杏樹は、一度失敗した自分にひたすら言い訳するかのように、必死に自分を変えようとしていた。本当に好きだったのは僕じゃなくて、自分だったんじゃないのか? と言いたかったんだよ」
「……」
私はこれ以上耐えられなかった。とめどなく涙が流れ出し、顔中を伝って地面にしたたり落ちた。泣き顔を見られたくなくて、両手で顔を覆ったまま店の壁に突っ伏した。
「さっきから何ですか、あなたは。片岡さんの言ってることがわからないんですか? 」
私の後ろから、智哉が叫んでいた。
ひたすら甲高く、野太さの無い迫力に欠ける声……けれど、目の前にいる健斗は、智哉の声に圧倒されていたように見えた。
「誰ですかあんたは。僕たちのことを何も知らない癖に、『言ってることがわからないのか』だなんて」
「そうですね。僕にはお二人に過去何があったのか、正直何もわかりません。だから、この場で偉そうなことを言える立場じゃないのは分かっています」
「だったら黙っててくれるかな? どこの誰だかしらないけど、何も知らないなら身をわきまえて、余計な口を挟まないでくれよ」
「わかりました。ただこれだけは言わせてください。片岡さんは今、すごく心が傷ついています。あなたが言った言葉に傷つき、泣いてるんです。片岡さん、あなたのことを好きだったんですよ? 行き過ぎた部分はあったかもしれませんが、それを自分に言い訳してるだろとか、好きなのは自分だろとか……人を平気で傷つけるようなことを言って、僕には、あなたではなく片岡さんが不憫でなりません」
そう言うと、智哉は私の身体を両手でそっと抱きしめた。
「僕ならば、仮に片岡さんを傷つけることを言ってしまったら、ちゃんと謝ります。何よりも彼女の気持ちを守りたいから」
智哉は私の身体を徐々に自分の身体へと引き寄せ、私の顔は智哉の胸の中にすっぽりとうずめられていた。智哉はあまり筋肉がないせいかごつごつとして骨っぽいけれど、私を必死に守ろうとして両手で強く抱きしめられ、心なしかぬくもりを感じられた。
「失礼ですが、僕は片岡さんがあなたと別れて正解だったと思います。自分の気持ちばかり優先して片岡さんを傷つけて。僕には信じられませんね。さ、行きましょう」
智哉は私の肩に手をかけ、私を支えながらゆっくりと歩きだした。
その時私の真後ろから、かすかに健斗の声と舌打ちの音が聞こえた。
私の聞き違いかもしれないけれど、「僕だって、あの時は傷つけるつもりなんてなかったのに。僕だって、心が張り裂けそうな位辛かったのに」と言っていたように聞こえた。
「歩けますか? 僕は一歩一歩、ゆ~っくり歩きますから。歩くのが辛くなったら遠慮しないで言ってくださいね」
「うん……」
智哉は時々私に優しく声をかけてくれた。
私は智哉の言葉に思わず甘えてしまった。いつもの私ならば、弱い所を見せたくなくて、「自分一人で大丈夫」って言い張るのに。
でも今の私は、智哉に甘えたかった。一人でいることが辛くて仕方がなかった。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、智哉はずっと私を支えてくれた。
私はいつしか張り詰めた気持ちが解けて、深く呼吸ができるようになっていた。支えられることがこんなに気持ちが良いなんて。
どれくらい歩いただろうか。気が付くと「しあわせ書房」は私たちの視界から見えなくなり、商店街の出口が目の前にあった。ここから交差点を渡れば、そこには最寄りの駅がある。
チリン、チリン、チリン。
どこからともなく、心地よい金属音が私の耳に入ってきた。一つ、二つ……いや、それ以上の数はあるように感じた。一体どこから響いているのだろうか。
「片岡さん、見て下さい。風鈴がいっぱい飾ってありますよ」
智哉が私の肩を支えながら、そっと真上を指さしてくれた。
そこには作業服を着た男性の一団がいて、梯子を使って風鈴を吊り下げる作業をしていた。その様子を見て、咄嗟に私は「しあわせ書房」で見つけたポスターのことを思い出した。
「ああ、そうだ。今度この商店街で『花風鈴』っていうイベントをやるんだって」
「へえ、そうなんですね。随分と風情のあることをしますね」
商店街の上から吊り下げられたたくさんの風鈴は、風に流されながら綺麗な音を立てて揺れていた。
「そう言えば、こないだ片岡さんからプレゼントされた『僕たちのミシシッピ・リバー』にも、『風鈴』って名前の話がありましたね」
「あ、そうね。確か、風鈴を下げていた部屋の夫婦が突然亡くなって、風鈴だけが寂しく残されていったお話だったような」
「そうです。寂しい終わり方でしたよね……でも、『終わりって悲しいことばかりじゃない。そこから新しい何かが始まるんだよ』って、重松先生は僕ら読者に伝えたかったのかなと思いました」
私と智哉は顔を上げて、真上に横一列に並んでいる風鈴を見ていた。
風鈴は心地よい音色を立てながら、左に右に揺らめき続けていた。
「ねえ、智哉くん」
「な、何ですか」
「私達も、ここから始めようか」
「え? 何をですか?」
「にぶいなあ、ホントに」
私は智哉の腕にそっと自分の腕を絡ませた。智哉は赤面しながら私の言葉の真意を必死に探ろうとしていた。私は笑いながら、そんな智哉の姿を愛らしく感じていた。
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