第3話 焦燥

※この話は、杏樹の視点で書いています。


朝からまぶしい光が差し込む中、私は吉祥寺駅で一人立ち尽くしていた。

 北口サーティワンの前で、スマートフォンを見ながらずっと待つ私に、真後ろからそっと誰かが背中を叩いた。


「待ちました? 」

「わわっ、驚かさないでよ」

「だって、ずーっとスマホ見てるから、いくら声掛けても気づかないんですもん」

「ご、ごめん。というか、いつまでも智哉くんが来ないから、LINEにメッセージを入れようとしてたんだよ」

「ああ、そうでしたか。それはごめんなさいね」


 智哉と私は、吉祥寺北口の細いアーケードへと歩きだした。

 今日は智哉の行きつけのカフェに連れてってくれるとのこと。おしゃれなカフェ巡りが好きな私は、期待しながら智哉と肩を並べて歩いていた。肩がぶつかりそうなほど狭いアーケードを進むと、やがて智哉は私を手招きした。


「ここ、狭くて急な階段ですから、ゆっくり落ち着いて降りて下さいね」


 手招きされるまま私は階段を下ると、まるで洞窟のような内装や、摩訶不思議なオブジェが目に入ってきた。


「ここなの? ちょっと怖い雰囲気ね」

「アハハハ、大丈夫ですよ。『くぐつ草』っていう店なんですけど、吉祥寺で四十年以上続く老舗カフェなんですよ」


 洞窟のような内装、古びた木造のテーブルと椅子、そして木板のバインダーに挟まれたレトロなメニュー表……私が想像していたおしゃれなカフェとは全然違っていた。店を変えてほしいと言いたかったけれど、智哉は鼻歌を歌いながらメニューをめくり、私の前に差し出した。


「ここはとにかくカレーが美味しいんですよ。もう一つのお薦めはアイスコーヒー。キンキンに冷えていて、今日みたいな蒸し暑い日には嬉しいんですよね。あ、ホットのコーヒーも本格的なネルドリップで美味しいですよ」


 眼鏡に手を添えながら、智哉はメニューを一つ一つ解説してくれた。

 健斗はここまで親切に教えてくれなかった。逆に私が彼に自分のおすすめのメニューを教えていた記憶があった。


「じゃあ、オムカレーにホットのブレンドコーヒーにしようかな」


 注文が終わると、智哉と私は、薄明かりの中でお互いの顔を見つめ合いながら、最近読んでいる小説の話を始めた。智哉は相変わらず重松清先生の小説を熱く語っていたが、その時私は「しあわせ書房」で見つけた本をまだ智哉に渡していないことに気付いた。


「あ、そうだ。智哉くんに頼まれた本、見つけたよ」

「え!? どこにあったんですか? 僕がいくら探しても見つからなかったのに」


 私は「僕たちのミシシッピ・リバー」を智哉に手渡すと、智哉は突然眼鏡を外し、何度も目元を拭いながらうれし泣きを始めた。


「読みたかったんですよ、これ。片岡さん、すごいですよ。心から尊敬します」

「いや、そこまで言われると……小さくてオンボロな本屋さんに置いてあったんですけどね」

「どこですか、それ? 僕、行ってみたいなあ」


 え? 「しあわせ書房」に行きたいだって?


「あの、すっごくオンボロで埃だらけで、おまけに趣味の悪い小娘がいて、智哉くんが見たらもう二度と来たくないって思うわよ」

「すごいなあ。今どきそんな古めかしい本屋さんなんて希少価値があるし、そして趣味が悪いということは計り知れない強い個性があるってことですからね。ますます行きたくなりましたよ」


 まさかの逆効果?

 私はこれ以上「しあわせ書房」の話題について口を閉ざそうと思った。


「そのお店、ここから遠い場所にあるんですか? 」

「まあね……何本か電車を乗り継ぐ必要はあるけど」

「ならば大丈夫ですね、何本か乗り継ぐ程度ならば、お安い御用ですよ」


 どうしてなの? 智哉は私がはぐらかそうとすればするほど、目を輝かせて行きたいオーラを発してくる。


「あ、注文したオムカレーが来ましたよ。食べたら早速行きましょう。楽しみだなあ、昔の重松先生の作品も置いてあるのかな」


 智哉は声を弾ませながら、オムカレーを勢いよく食べ始めた。私も少しずつスプーンを動かし、卵とカレーを混ぜながら食べてみたけれど、スクランブルエッグのように適度に炒められた卵はカレールウに本当によく合う。


「おいしい……何だか癖になりそう」

「でしょ? ぜひ杏樹さんに食べてもらいたかったんです」


 智哉は私の声を聞くと、嬉しそうにうなずきながらカレーを頬張っていた。

 突拍子もない考え方についていけないこともあるけれど、無邪気に好きな物を好きだと言えるその性格に、私は徐々に惹きこまれていった。お互いに飾らないから肩が凝らないし、私も智哉に釣られるかのように自分に素直になっていた。


 昼食後、私たちは智哉に急かされるまま吉祥寺を出発し、「しあわせ書房」の最寄り駅で下車した。駅から続く商店街に入ると、私の頭の中には昔の健斗との思い出が急に湧き出してきて、足取りが次第に重くなってきた。


「ねえ、やめようよ。ハッキリ言って長居したくない場所だよ。もっと広くて品揃えの多い本屋さんはいっぱいあるから、そっちに行こうよ」

「いや、行きましょう。片岡さんの話を聞くうちに、行きたくてたまらなくなりました」


 私は深いため息をついた。智哉、本当に勘弁してよ……。

 やがて私たちの前に、今にもずり落ちそうな「しあわせ書房」と書かれた古い看板が姿を現した。


「ここですね。いい味出してますね、この看板。さ、行きましょう」

「私はここで見てるから、ひとりで行ってきてくれる? 」

「何言ってるんですか? 一緒に重松先生の本を探しましょうよ」

「きっと店員さんが教えてくれるわよ。あ、ほら、そこにいるでしょ? 」


 私の向ける視線の先に、椎菜の姿があった。今日も安っぽいアメコミのイラスト入りシャツに、歩きにくそうな裾の広がったジーンズを穿いていた。ポケットに入っているスマートフォンには小さなプリークリーの人形が付いていた。私には彼女の趣向が全く理解できなかった。アイドルみたいな可愛い顔をしてるんだから、もっと可愛いデザインの洋服の方が似合うのに。

 智哉は一人で「しあわせ書房」の店の奥へと歩いていった。私はその姿を、店の外から隠れるように見届けていた。


「何かお探しですか? 」


 案の定、椎菜は智哉に声をかけてきた。すると智哉は、私がこの店で買った「僕たちのミシシッピ・リバー」をバッグから取り出し、椎菜の目の前に差し出した。


「僕の知り合いがこの店でこの本を買って、僕にプレゼントしてくれたんです。もう十年以上前に発行された本だから、どこを探しても売ってないのに、この店には置いてあるなんてすごいなぁと思いまして。僕、重松清先生の大ファンなんですけど、きっと重松先生の昔の作品もたくさん置いてあるんじゃないかと思って、わざわざ足を延ばしました」


 智哉は興奮気味にそう話すと、椎菜は両手で頬を抑えながら顔を紅潮させていた。


「いやいや、たまたま置いてあっただけですよ。でも、重松先生の作品は私も大好きで、文庫本は出来る限り揃えているつもりですよ」


 二人は重松清先生の文庫本が並ぶ本棚の前で、次々と本を取り出しては楽しそうに話を続けていた。本の話をするうちに智哉と椎菜は意気投合し、二人の間の距離はいつの間にかほんの数センチ程度にまで狭まっていた。この小娘はどこまで私の邪魔をするんだろう? ああ、やっぱり連れて来るんじゃなかった……。


「じゃあ、これとこれ、買っていきますね。どっちの本もあちこち探しても見つからなくて、まさかここで買えるとは夢にも思いませんでした」


 智哉は嬉しそうに椎菜に本を渡すと、店の外を見た。


「今日、実は僕の知り合いも一緒に来てるんですよ。共通の友達に紹介してもらって、お互いに重松清先生が好きで、いつも先生の本の話で盛り上がるんですよ」

「え、本当ですか? どちらに来てるんですか? 」


 すると智哉は、左右に首を動かしながら私の居所を探し始めた。


「おーい、片岡さん、片岡杏樹さん、どこにいるんですかぁ!? 」


 私の名前を大声で連呼するのを聞いて、私は思わず顔をしかめた。私がどうして店に入らず遠目から見守っていたのか、智哉はその理由を分かっているのだろうか。


「杏樹さん? まさか、その人って……」


 案の定、椎菜は私の存在に気付いたようだ。そして、店の奥から駆け出して、店の外に立っていた私を見つけると、「やっぱり、そうなんだ」と小声で言った。

 私はしかめ面を見られたくない一心で、椎菜に背中を向けていた。


「杏樹さん、こんにちは」


 椎菜の明るく透き通るような声が私の耳に入ってきた。声を聞くと、私は余計に虫唾が走った。


「私はここに来たくなかったんだけど、智哉がどうしてもここに来たいっていうからさ」

「素敵な彼氏ですね。あんなに楽しそうに本を探す人、初めて会いましたよ」

「……まあね。重松清先生の大ファンみたいだから」

「でも、そんな彼氏のために、一生懸命欲しがっていた本を探してあげた杏樹さんも素敵ですよ」

「よ、余計なお世話だよ。私は彼の喜ぶ顔が見たかっただけだから」

「わぁ、杏樹さん、かわいいなあ。彼の喜ぶ顔が見たいからだって! 」


 私の焦燥は頂点に達しようとしていた。智哉の手前、感情的になってはいけないと思い、高鳴る感情や震える両手を必死の思いで抑えていた。 

 そんな私の気持ちを察しようともせず、椎菜は明後日の方向を向いて何かをじっと凝視していた。


「あ、健斗くんだ!」


 健斗? 私は椎菜の言葉に耳を疑った。

 すると、駅の方向から、スーツに身を包んだ健斗が徐々にこちらに近づいてくるのが、私の眼中にはっきりと映っていた。


「健斗くーん、今日は杏樹さんが来てるよ!」


 椎菜は大声で健斗に呼び掛けた。その言葉は、私にとどめの一撃を与えた。

 私は胸が苦しくなり、その場に座り込んでしまった。智哉が一緒に居る以上、逃げることも隠れることも出来ない。健斗には二度と逢いたくなかったのに、私、一体どうすればいいんだろう……。



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