第2話 決心

 ※このお話は、「杏樹」の視点で書いています。


 昨日は久しぶりに雨が止み、雲間から陽ざしが差し込んだのに、今日はまた朝から雨が降り出した。折角の週末なのに何もすることもなく、スマートフォンで興味が赴くままネットサーフィンするのも飽きてきた。私は「しあわせ書房」で買った重松清先生の本「僕たちのミシシッピ・リバー」を手に取った。

 四季をテーマにした短編集「季節風」シリーズの「夏」編として出版されたもので、私が思いを寄せている智哉ともやが探し出していた一冊だ。

 私はページをめくろうとすると、突如埃がふわりと舞い上がり、私の鼻や目に入ってしまった。


「うわっ、埃がついてる……あの本屋はどういう商品管理してるのよ! 」


 私は重度の花粉症持ちなので、花粉はもちろんのこと、埃が舞っただけでも鼻が敏感に反応し、くしゃみと鼻水が止まらなくなる。

 今日は化粧していないし、部屋の中には私一人だから平気だけど、これが智哉と一緒の時だったら……危うく健斗との鎌倉デートの二の舞になる所だった。

 とめどなく続くくしゃみに苦しみながら、私はページをめくった。

 この作品は短編集だが、一つ一つの作品に人間模様が丁寧に描かれていた。登場人物は皆寂しい別れを経験するけど、どこかに折り合いをつけ、受け入れ、人間として成長していく、そんな話が多いような印象だった。

 それは、健斗と別れ、智哉と出会うまでの自分と驚くほど重なっていた。

 私は作品を読みながら、智哉と出会った日のことを思い巡らせた。



 横殴りの激しい雨が窓を叩く昼下がり。

 時計の針が昼の十二時を過ぎても、私はずっとベットで寝続けていた。

 健斗に言われた言葉が今も時々脳裏をかすめ、そのたびに悔しさと情けなさでとめどなく涙が溢れてくる。

 こんな自分は誰にも見せたくない……そう思って布団をかぶっていたその時、私のスマートフォンがけたたましい音を立てて震えだした。

 せっかく心落ち着かせて本を読んでいたのに、邪魔されたみたいでちょっとムカついた。スマートフォンを開けると、どうやらLINEを通してメッセージが届いていたようだ。


『おはよう杏樹。今日は家にいるの? 今夜、バイト先の友人の智哉と一緒に飲むんだけど、杏樹も来たら? 学校近くの居酒屋「源太郎」で六時待ち合わせね。都合悪くなければ来てよ』


 メッセージの主は浩太朗だった。こんなに雨が降ってるのに飲み会? と思ったけど、智哉を連れてきてくれるんだから、いくら雨が嫌でも行きたい気持ちが強かった。

 浩太朗は大学入学の時から、ただ一人の心許せる友達だった。そして、情緒不安定で自分に自信が無かった私を、陰から支えてくれていた。

 健斗と別れたあの時も、浩太朗は落ち込んで自信を失っていた私を励まし続けてくれた。そして、早く新しい彼氏ができるようにと、男友達を連れてきては合コンを設定してくれた。しかし、自信を失った私は、自分を見せたくない気持ちが先行して相手の顔を直視できず、相手に暗い女だと思われてチャンスを潰してしまうことばかり続いていた。紹介してくれた浩太朗にはそのたびに申し訳なく思い、頭を下げていた。


 雨の中出かけることは正直気が進まなかったけれど、めげずに合コンを設定してくれる浩太朗に感謝し、私は約束の時間に居酒屋「源太郎」の前にたどり着いた。

 雨が降りしきる中、浩太朗が両手を振って私を出迎えてくれた。


「杏樹、悪かったな、呼び出して」

「何よ、よりによってこんな雨の日に」

「いいじゃん。智哉にお前のこと話したら、直接会いたいって自分から言ってくれたんだぞ。またとないチャンスなんだからさ」


 浩太朗と私は店の中に入ると、奥にある小部屋に通された。

 しばらく二人でジョッキを傾けて色々と話をしていたが、やがて私たちの前に、ひょろっとした体型の大きな丸眼鏡をかけた男性が現れた。


「初めまして、奥平智哉おくだいらともやといいます」

「智哉。待ってたぞ。こちらがお前が会いたいって言ってた、片岡杏樹かたおかあんじゅさんだ」

「はじめまして、片岡です」


 すると智哉は眼鏡に手を当てながら、にっこりと微笑んだ。智哉は健斗とはまた違う雰囲気で、丸眼鏡をかけているせいか、どことなくハリー・ポッターに似ている感じがした。よく言えば学者風、悪く言えばややオタクっぽい感じがあった。

 いくら私の寂しさを埋めるためとはいえ、なんでこんな人を連れてきたのか、私は浩太朗の余計なおせっかいを鬱陶しく感じた。

 しばらくの間、智哉は浩太朗とばかり話をしていた。しかし、私はそこに割って入ろうと思わなかった。健斗以上の男はもう私の前に現れないんだろうか……そう思うと、ますます切ない思いで胸が潰れそうになっていた。


「あ、俺、トイレ行ってくるわ。二人で楽しく会話しててくれや」


 浩太朗はにこやかに手を振って部屋を出ていき、私は部屋の中で智哉と二人きりになった。智哉はジョッキを手にしながら、しばらくの間無言で私の方をじっと見つめていた。私は顔をそむけたまま、手元に置かれた枝豆を一つ一つ皮を剥いて食べていた。


「片岡さん、重松清さんを愛読していると聞きましたよ。僕もすごく好きなんですよ」


 突然、沈黙を破るかのように明るく乾いた声で、智哉は私に語り掛けてきた。

 私は顔を背けながら「はい」とだけ答えた。


「僕は『とんび』から入ったんですよ。最初はドラマ見て、そこから原作読んだのがきっかけだったんですけど、『青い鳥』を読んでから、どんどん惹きこまれていきました。僕、子どもの頃すごくいじめられた経験があるんで、この作品に出てくるような先生に会いたかったなあって、羨ましいと思いながら読んでいました。重松先生は、子どもの心をよくわかってる数少ない小説家だと思うんですよね」


 智哉は、私がずっとそっぽを向いてるにも関わらず、穏やかな語り口で私に語り掛けてきた。『青い鳥』……実は私も、中学の頃に読んでいた一冊だ。あの頃、私のクラスにはいくつかの仲良しグループがあり、私はどのグループにも入らずクラスで孤立していた。そんな時、たまたま図書室で目にした『青い鳥』。この作品に登場する村内先生は、学校の先生が教えてくれなかったたくさんの「たいせつなこと」を教えてくれた。


「実は私も……『青い鳥』、読んでました。良い作品でしたよね」

「でしょ? あとは『その日のまえに』かな? この本を読んで、人生って何だろうって、死って何だろうってすごく考えるようになりました。『みんなのうた』も良いですね。僕自身も志望大学に受からなくて心が荒んでた時期があったから、主人公に共感しながら読んでいました」


 私は驚きを隠せなかった。智哉が教えてくれた本は私も読んでいたものばかりだし、智哉と同じように、これまで人生に悩んだ時には支えとなってくれたものばかりだった。


「あの……それ、全部読みましたけど」

「そうですか。じゃあ筋金入りの重松ファンですね、片岡さんも」

「そうかな、そこまででもないけど。アハハハ」


 私は背けていた顔を少しずつ智哉の方に向け始めた。そこには、まるで私が顔を向けてくれるのを待っていたかのように、おだやかな笑顔を見せている智哉の姿があった。それはまるで、私という人間を受け入れているかのように感じた。

 そして私は、いつの間にか智哉と時間を忘れて話し込んでいた。


「あ、そうそう。僕、今は『季節風』シリーズを読んでるんですよ。季節ごとにまとめた短編集ですが、どれも読みごたえがあって好きなんですよ」

「私はまだ……そのシリーズ、読んでないですね」

「そうですか? 季節ごとに展開される重松先生の世界観がたまらなく面白いですよ。でもね、まだ『夏』だけは読んでないんですよね。どこの本屋にも売ってなくて。ネット書店や古本屋さんも探したんですけど、なかなか見つからなくて」

「じゃあ、私も探してみます。どこかにきっとあると思いますよ」

「本当ですか? 嬉しいなあ。一緒にあちこちの本屋さんをあたりましょう」


 智哉は無邪気な表情で私の顔を見て喜んでいた。その表情は子どものように純粋だった。彼は心から重松清先生が好きなんだろう。私も好きだけど、ここまで入れ込んでいる人には会ったことが無かった。


「片岡さん」

「何ですか」

「僕はまた一緒に重松先生の作品の話をしたい。差支えなければ、また会ってくれますか」


 智哉は見かけによらず、積極的だった。


「こんな私でもいいんですか? 私と一緒に居たら疲れちゃうんじゃないかって心配で」

「何言ってるんですか。僕は全然疲れていないですよ。むしろ、このままずっとお話していたいって思うくらいですよ」


 そう言うと、智哉はスマートフォンを取り出し、LINEのアプリを開いた。

 きっとこれから、私とアドレス交換をするつもりなんだろう。


「本当に、私なんかでいいんですか? 」

「いいんです。というか、『私なんか』とか言っちゃダメですよ」


 私はポケットからスマートフォンを取り出すと、智哉とLINEアドレスの交換を行った。ずっと気持ちがふさぎこんでいた私が、ようやく第一歩を踏み出せた瞬間だった。


「あれ? 何だ二人とも、楽しそうじゃないか」


 アドレスの交換を終わった時、見計らったかのように浩太朗が戻ってきた。


「な、何やってんのよ、遅いじゃないの」


 私はあまりにも戻りが遅かった浩太朗の背中を叩いてしまったけど、内心ではちょっとだけ浩太朗に感謝していたりもした。

 智哉の外見は正直好きになれなかった。だけど、智哉と話していると、飾らずありのままの自分を出せる気がした。健斗と別れた後、どんよりとした厚い曇に覆われていた私の心に風穴を開け、日差しを当ててくれたような、そんな不思議な気分になった。



 私は智哉と出会った日のことを思い巡らせつつ、読んでいた「僕たちのミシシッピ・リバー」をゆっくりと閉じた。

 明日、智哉に会う約束をしている。その時、この本は智哉にプレゼントする予定だ。「しあわせ書房」でようやく見つけたこの本、智哉はきっと満面の笑みで喜んでくれるだろう。

 そう思うと、明日会うのが楽しみになってきた。

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