9.欺瞞の理由
「名前って」一番に反応したのは波止中だった。「この偽名っぽい、
「ぽい、というかほぼほぼ、偽名だろうね」と片桐が続く。
「ええ。状況的にもその可能性が高いでしょう。しかし、そうなると、気になることが一つ」
美波は人差し指を立てた。
「今回の一連の動画投稿をするにあたって、名前という要素は、重要ではありません。なのに何故、こんな特異な名前にしたのでしょうか。特定される手がかりともなり得ります。他のことでは少しでも減らしたいとしていたというのに」
「確かに、もっとありふれた名前でも困ることはないよね。例えば佐藤一郎ぉとか、鈴木二郎ぉとか、田中三郎ぉとか」何故か語尾を伸ばす片桐。
「わざわざこんな珍しい名前を付けた……ということは、なにかしら明確な意図があったのではないかと」美波は光莉の顔を見た。「衛藤さん、お手数ですが、このアカウント名をローマ字表記にしていただけますか」
「えっ、あっ、う、うん」光莉は突然名前を呼ばれたことに驚きながらも、スマートフォンを取り出した。目的はメモ機能である。
「ローマ字ってことは、ええっと。つまり……」
頭に浮かべた綴りを打ち込んでいく。
「
大文字にしたことに、特に理由はない。
「次に、い、と、はて、の間を開けてみて下さい」
「ええっと、
「はいっ」嬉しそうな美波。「意図的なものでしょう。偶然そうなるとは流石に考えにくいですからね」
「確かに……」
「ん、どういうこと?」置いてけぼりなのは片桐と、その隣にいる波止中。二人とも首を傾げている。
「訳すんですよ」光莉は真っ直ぐに片桐を見た。
「それはなんとなく分かるけど、その意味は?」
ああそっちか。真剣な表情に変える光莉。
「私は、あなたを、憎みます」
「にくっ……ああ、そういうことか」片桐はその意味を聞くと、深く頷いた。「だから、ミナっちゃんは被害者、もしくはその関係者って考えたのね」
「はい」
「しかしまあ、こんなのよく気づけたね。普通、変換なんてしないでしょ」
「波止中くんのメッセージの件。あれのおかげで、閃きました」
「メッセージ……ああ、“どう”、のことね」片桐は隣にいる人物の気持ちなど慮ることなく、言わなくていい詳細で述べた。
「あれは、どうへの見方を変えることで、隠された意味が浮き彫りになりました。なので、こちらも、同様に見方を変えてみたら、というわけです」
だが当の本人は集中でもしているのか、波止中が耳横をかすめるようにして真っ直ぐ高く、「はい」と手を挙げた。
「どうぞ」
「その、私はあなたを憎みます、のあなたって、教授だけじゃなくて、動画に映っている人たちも含まれてたりしないのかな」
「というと?」
「ほら、自分のことを助けてくれなかったことへの恨み、みたいなことで。要するに、今回のこの騒動、単純な教授から被害を受けた人たちだけでやったことなんじゃないかって、俺、思ったんだけど、そうは考えられないかな?」
友人が疑われている波止中。少しでもその無実を証明したいと思うのはごく自然なことだ。
「私としては、五人全員が犯人、もしくは犯人の協力者、というほうが腑に落ちます」
「どうして?」
「まず、被害届を出していないことが挙げられます」
「ああ、そこは僕も思ってた」片桐が少し背を伸ばして反応する。「出してもいい、というか、出すよね普通は」
「ええ。これだけ動画が拡散されていれば、デジタルタトゥーとして残ってしまいますからね。普通なら、警察に介入してもらって、一刻も早く対策を講じて然るべき。なのに、誰も何もしていない。ということは、警察を関わらせたくない理由があるはずです。真っ先に考えられるのは、自身も関係者であるとバレてしまうから」
片桐が「デジタルタトゥー、とはなんぞや?」と首を傾げた。
解説を行うのは今回も光莉。「その人物にとって不利益な情報が、デジタル空間に残り続けてしまうことです。こうやって拡散されてしまったりすると、消したくても消せない痕になってしまうので、デジタルタトゥーと呼びます」
「ネット上の
片桐の納得した表情の傍らで、美波は続きを話す。
「そして、大学側から聞き取り調査があったとのことですが、自身が恨まれていることに心当たりが無かったとしても、教授への恨みを抱く人物の候補として、辞めた人の名前を挙げることでしょう。しかし、今の状況を鑑みると、おそらく誰も名前を挙げていない。一人だけなら忘れているとも考えられますが、五人ともとなれば、敢えて口をつぐんでいるというべきでしょう」
だから、犯人それか協力者と考えたほうが合点がいったわけか。皆が等しく納得した。
その上で、「アタシからも一つ、いいかな」と、光莉はおもむろに手を挙げる。
「もちろん、どうぞ」美波は視線を向け、縦に頷いた。
「この動画についてだけど、フェイクじゃないって、つまりは本物だってバレちゃう可能性があるじゃない? そうしたら、映っている人が、そういうペナルティを受けたりするだろうに、なんで自ら映るっていう選択をしたのかな?」
「そうですね、バレる危険、というのは確かにあります。しかし、フェイク動画かどうかを見抜く検知技術がかなり発達してきてはいるといえ、完全に確実に見破れるというわけではありません。あくまでその可能性が高い、という判断までしかできないのが現状。であれば、フェイク動画でないと言われても、完全にそう証明する手立てはないわけです。なら最初にフェイク動画であると謳ってしまえば、後々それを否定すること、つまりフェイク動画ではないと証明するのは、至極困難なこととなるわけです」
「悪魔の証明、というやつか……」片桐は少し口をとんがらせながら、ぼそりと独り言を呟いた。
「それにですね、犯人たちにとっては、真贋判定で明かされること、なによりそれに対するペナルティを課せられることについては、然程気にかけていなかったのではないかと私は考えています」
「え、なんで?」光莉は首を傾げる。
「精巧なフェイク動画が連続して投稿され、そこに映っているのは実在する人の顔や姿……そういう動画が今あると広まる。そうして、沢山の人がその動画を閲覧する機会に触れてもらう。それこそが、フェイク動画というていを選んだ真の理由なのではないでしょうか」
「そうかっ」閃いた片桐は作った拳をもう片方の手で用意した平に垂直にぶつけた。「つまりは、世間への
美波はその通りと言わんばかりに深々と縦に一回頷いた。
「連続して投稿したのも、話題が消えないよう計算したうえで方法かもしれません。なににせよ、本人や大学にも揉み消せないぐらい、手の届かないぐらい、多くの人にこの告発内容を知ってもらうこと。それこそが、彼彼女らが何よりも望んだことなのではないでしょうか」
光莉は波止中が投稿に紐付いたコメントに、よくできたフェイク動画である、と書いてあったと口にしていたことを思い出す。
その言葉に波止中が疑う素振りはなかった。しかし、その言葉に一体なんの根拠があるというのか。どっかの論文でも無いのに、その道のプロや評価ある人物からの発言であるかどうかも分からないのに。
そして何より、投稿にはフェイク動画のハッシュタグが付いていた。もしかすると、それによって閲覧した者が皆、潜在的にそうだと思い込み、その方向に誘導された。それ自体、最初から仕組まれていたことなのかもしれない。
全ては周到に用意された策略に、皆がまんまと踊らされていたのかもしれない。
「それさえ達成できればよかった……ハナっから腹括ってたのかもね」片桐は鼻から大きく息を吐いた。
「動画に映った理由で考えられることとして、もう一つ加えるとするならば、動画を見た人の意識から犯人候補から除外してもらう、というのもあったのかもしれません。フェイク動画と自ら発信しており、また内容が内容なだけに、まさか映っている人たちが犯人だなんて普通思わないですから」
「確かに、動画に映る人たちへは、ネットでは同情の声ばっかだからな」
そう波止中が言った時、光莉は自分の口から、不幸だった、と言ったことを思い出す。自分もそう考えた一人であることに今更ながらに気づいた。
美波は少し重い表情になり、視線を落とす。
「ハラスメント教授のせいで、希望に満ちていたはずのキャンパスライフを謳歌できず、いなくなった友人たち。もっと一緒に勉強できたはずなのに、もっと遊んだりできたはずなのに、もっと思い出を作れたはずなのに……」
美波の言葉で、光莉の脳裏には大学時代の思い出が思い起こされていた。
くだらないことで笑い合ったり、互いの悲しいことに泣いたりした、あれやこれ。辛かった時に自分を助けてくれさえした思い出、もしもそれが全て無かったとしたら?
そして社会人という面倒なしがらみもなく、また家族には話しづらい話もしたりできる大切な存在がそばにいなかったとしたら?
そんな仮定の話を、光莉は自身の人生に当てはめた。結論は早かった。ストレス過多で、社会人として生きていけない。仮定の話であるというのに、恐ろしくなり、身震いさえしてくる。
「間近で見ていた彼彼女らは、メンタルが弱っていく姿を見て、そして大学から姿を消したことに、さぞ悔しさを感じたことでしょう。同時に、許せなかった。そして、これ以上の被害者を出さないため、今回の行動を起こした。これが、このフェイク動画を作った動機、ではないでしょうか」
「ただ困らせてやろうとか、話題になってやろうなんていう愉快犯的なものじゃなくて、明確な意志と決意と、そんで大きな覚悟をもって作った、彼らなりの、不条理さへの対抗手段だったってことかねぇ……」
片桐がそう締め括ると、話が終わるのを待っていたかのように、ラジオから大きめのBGMが流れた。
〈ということで、ラジオ特報便、今週も終わりの時間がやってまいりました〉
コインランドリー中に響き渡ったせいで、皆の意識がそちらへと移る。
「てことは」波止中が視線を上げ、辺りを見回した。壁時計を捉えた時、口にする。「あっ、やっぱ、もう九時か」
「えっ、九時!?」
美波は珍しく声を荒げ、立ち上がった。さっきまでの冷静さを完全に失っている。
「た、大変っ」
どうかしたのか、と皆が声をかける間もなく、美波はそばの荷物を手に取って、勢いよく立ち上がる。そして、皆の方を向いた。
「し、失礼しますっ!」
美波は大きく一礼すると、慌ててコインランドリーを出ていった。
〈それではっ〉〈〈また来週~〉〉
終わるラジオ。訪れる沈黙。
波止中は驚いて、目をしばたたいている。「嵐のように去っていきましたね……」
片桐は、ワンカップの残りを確かめるべく、少し持ち上げて、下から覗き見ていた。
「何か用でもあるんじゃない?」
光莉は片眉を上げる。「こんな時間から、ですか?」
「人には人の事情があるのさ」
「そうなんですねぇ……」
「あっ」波止中はおもむろに立ち上がった。「忘れてた」
傍らに置いていたカゴを持って、いつのまにか終わっていた洗濯物を取りに行く。
洗濯機からまとめて取り出している波止中を、光莉は見つめていた。理由は、訊ねたいことがあったからだ。
美波の前では話しづらい内容だが、いなくなった今、絶好のタイミング。突然訪れたのは、まさに機というもの。また会えるとも限らないし、こういうのは逃したら、永遠の謎になるかもしれない。
乾燥機に軽くかけて水気を落としてから、波止中は光莉たちのほうに戻ってくる。
一杯になった洗濯カゴを床に置くと、中から飲みかけのスポーツドリンクを探し出して、どんと腰かける。
ペットボトルの蓋を開いた時、「ねえ」と、光莉は声をかけた。
「ふぁい?」飲み干そうとして、傾ける角度は急だった。
「君って、浜音さんのこと、好きなの?」
「ブフッ」吹き出す波止中。「エホッ、ゲホッ、オホッ」
むせているのを横目に見ながら、片桐は耳とワンカップを傾けていた。
「ご、ごめんね。変な時に話しかけて」
考えていたタイミングは逸しなかったが、考えていなかったタイミングが悪かったことを素直に謝る光莉。
「いやいや、別に全然いいんすけど……えっ、そんな風に見えてましたか、俺?」
「まあ多少、ね」
「マジかぁ……」
やってしまった、と天を仰ぎ見る波止中。そこに不純な意図はない、と言いたげだった。
「じゃあ、違うの?」
「ええ、無実です。事実無根です」苦笑いの波止中。
「いや、アタシはてっきりね、浜音ちゃんのことを見つめてたりしてたからさ」
「いつもゼミの時とかおどおど喋ってるので、淀みなく話してる姿に驚いちゃって、つい見ちゃっただけですよ」
普段は少し言葉がつっかえる節があるが、推論する時は途端に饒舌になる。
推論と同じく、もはや慣れた光莉は疑問を抱かなかったが、初めてこの場面に遭遇すれば確かにそうなるやもしれない。
「ああ、それでね。成る程」と納得した上で光莉は改めて、「変な疑いをかけてしまい、大変申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げた。
「あっいや、気にしないで下さい」そう応える波止中は不機嫌にはなっていない様子。「よく言われることなんで」
「よく、言われる?」
「ええ。女性を見てる目が、好意振りまいてるみたいで嫌だって。あっいや、言われた、ですかね。もう元だから……」
元、ということは、そういうこと。もしかしたら、それが別れた理由……光莉は片桐と顔を見合わせた。口にせずとも、意思は通じ合う。
「ああそっか、もう元なのか……元カノになっちゃったのか、これで……」
波止中は突きつけられた事実を思わぬ形で思い出し、がくりと肩を落とした。
「俺も、帰ります……」
立ち上がり、洗濯カゴを持ち手にくぐらすようにして両腕を通した。
「あ、ああ……また会う機会があったら」
「はい……」
悲しみが蘇った波止中。弱々しく一礼すると、出入口のほうへとゆっくり歩き出す。
自動ドアの前にさしかかった時、光莉は「あっ」と手を伸ばす。少し立ち止まらないと、と声をかけようとしたからだ。
「いてっ」
だが間に合わず。波止中は自動ドアへ額からぶつかった。くらっと後退した直後、悲しくも自動ドアが開く。空気を読まない感は健在で、相変わらず開く速度は遅い。
「あぁ……」
光莉は伸ばした手をゆっくり落とす。余計なことは伝えて、必要なことは伝えきれなくてごめん。そう心の中で呟いたのであった。
闇夜に消えていく波止中の姿は物悲しさで包まれていた。そうして、自動ドアが閉まった。
「大丈夫ですかね。なかなかにショックを受けてましたけど、ちゃんと帰れるかな……」
「そこまでの心配いらないよ」片桐は口を半開きにして、左頬を掻いた。「男の子だもん」
光莉は、昔のアニメソング特集で似たような、女の子だもん、みたいな歌詞があったような気がした。けど、タイトルを思い出せなかったので、それ以上考えるのはやめた。
視線を戻したその時、つい椅子に目が向く。正確には、椅子の上に置かれたもの。波止中のスマートフォンだ。
「あっ」光莉は近づき、手に取る。「忘れてますね」
「あーあ、ショック過ぎて、忘れちゃったのかな」
ショックを受けるきっかけを作った者として、弱り目に祟り目なのは可哀想だと光莉。おもむろに立ち上がった。
「まだ近くだろうし、ちょっと届けてきますね」
光莉がスマートフォンを軽く持ち上げてみせると、片桐は「よろしく〜」と残りの酒を飲み干した。
小走りで、コインランドリーの外へと出る光莉。もちろん、自動ドアの前では、少し止まって。
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