7.真実より大事なもの

 量が多いからか、美波の洗濯物の袋はいつもよりも厚みがあった。そのため、抱きかかえるようにして持っているのがよく見えた。


「こんばんわ」自動ドアの前で、会釈する美波。


「どぉーも」いつも通り、飄々と声をかける片桐。「今日は洗濯物多いね」


「幾分か。先週来れなかったので」


「てこたぁ、二週分か」


「はい」美波はそう答えると、少し跳ねた。その反動で洗濯物を抱え直す。


「そっか。あっ、呼び止めて悪かったね。ちょっくら、新しいのを買ってくるわ」片桐はゆらゆらと空いたワンカップを揺らす。


「いってらっしゃい」また会釈する美波。


 片桐は歩みを進めながらすれ違いざまに、「ほい、いってきまぁーーす」と返事した。


 美波は上半身を動かしながら見送ると、店内へと足を踏み入れた。視線はすぐにカウンターにいた光莉へ向けられた。


「あっ、こんばんわ」


 光莉は「こ、こんばんわ」とどこか他人行儀で拙い挨拶をしてしまう。


 美波は少し口を開くが、ただそれだけで何も言わず、口を閉じた。そのまま、洗濯機の前まで進んでいく。


 光莉は俯く。だが、すぐに力強く手を握った。それは決心と決意の証であった。


「あのさ、浜音さん」


 洗濯物を全て入れ、回し始めてから、光莉は立ち上がった。


「は、はい」呼びかけられた美波は、びくりと身体を動かすと、様子を伺うようにして、振り向いた。


「ごめん、脅かすつもりはなかったんだけど……」相変わらず始まりは最悪である。「この前のこと、なんだけどさ」


「あっ」その一言で光莉が何を言わんとしているか、気づいたようだった。「ど、どうでした? お知り合いの方にあの事のお話を?」


 その反応からは、光莉が嘘をついていたということは気づいていない様子である。だがそれがより一層、光莉に揺らぎを与える。


「あぁ、いや。結局言うのは、その、やめて……」


 光莉は脳と口だけで、そう発した。


「そうでしたか。い、いえ、それでいいと思います。間違いないと言い切れませんから」


 美波は続ける。


「そ、相貌失認だとしてもそうでないとしても、何かしらの、つ、強い意志や意図があったからこそ、弐瓶さんはずっと、続けてきたんだと思います。言ってしまえば、フォローすることも、い、嫌なのかもしれない。そう考えられる余地があるのなら、そっとしておくほうが、と、得策だと思います」


 労りが垣間見える気の遣った発言に、心が締めつけられる光莉。それなのに自分は……、口を強く閉じる。


 光莉は立ち上がり、「ごめんなさい」と深々と心から頭を下げた。


「あいや、その」美波は両手を身体の前で振る。「聞かなかったことは本当に気にして……」


 顔を上げる光莉。


「違うの。いや、その違くはないのかもしれないけど、その……弐瓶さんのこと、知り合いから聞いた話って、アタシ言ったでしょ。あれ、実は、アタシなの」


「……え?」


「知り合いなんかいなくて……アタシが弐瓶さんをカフェで目撃して、先輩から昔の話を聞いたの」


「そ、そうだったのですね」


「アタシが見て、ってただ言えばよかっただけの話だったんだけど……嘘ついて本当にごめんなさい」


 光莉は再び深々と頭を下げた。


「い、いえ。嘘だなんて。だ、騙されて私とかに不利益が、とかじゃないですから、気にしないで下さい」


 美波は優しい笑みになる。「こ、個人的には、嬉しかったです。正直に言って下さって」


 そう話す美波に、「え?」と戸惑いの顔で見つめる光莉。


「なんて言いますか……その、わ、私を信用してくれたと言いますか。私、そうだって気づいていなかったのに、正直に教えてくれて。ど、どうでもいいやって思われてなかったんだって」


「そんな、どうでもいいだなんて、思ってないし、思ったこともないよ」


 流れる沈黙。居た堪れなさや居心地の悪さということではない。もはや照れに近い現象であった。


「ま、また何かあったら教えて下さい。わ、私でよければご相談にのりますから……って生意気ですかね」


「そんなことない。ありがとう。じゃあ、またお願いしちゃうかも」


「はい」


 互いにふふふ、と笑みを交わす。


 煌々とした明かりも相まって、店内があたたかくなっていく。どこか冷えて固まっていた空気が溶け始めたことを、光莉は肌で感じていた。


 美波は微笑みながら、少し視線を落としたその時、ふと眉が動く。


「あれ?」


 美波は凝視する。その目線の先は、光莉のエコバッグの中。


「それって……」と、指でさす。


「ああ、流石。もう気づいたんだね」


 光莉が取り出したのは、一冊の文庫本。防水加工されて表紙にぴったりとくっついている透明なカバーがかけられている。表紙の中央下辺りに、バーコードがついている。


「やっぱりっ」


 美波が過敏に反応する。『緋色の研究』というタイトルが見えたからだろう。


「うん、この前、図書館で借りてみたんだ。シャーロック・ホームズって名前は聞いたことあったけど、こういう小説とかは読んだことはなくて。どれから読めばいいか分からなかったからネットで調べてたら、これが第一作だってあったからさ。まあ読むなら、順番通りに読んだほうがいいかなって思って」


「仰る通りです。正直なところ、時系列としては、ホームズとワトソンが初めて出会った話、というわけではないのですが」


 謎解きをする時と同じく、美波の口調は淀みのない喋り。


「えっ、そうなの?」


「ええ。もう既に出会っており、幾つか事件を解決しており、関係性も知名度もある程度はある状態です」


「あっそうだったんだ」


「しかし、刊行としては一番最初ですので、まったくもって問題はありません」


 その言葉に、ほっと胸を撫で下ろす光莉。


「読み進めていくと、ああここからあの伝説のコンビが著名に活躍していくんだ……という場面が節々にあって。数多の非凡さに、読む手が止まらなくなります。出来ることなら、記憶を消して、もう一度読みたいです」


「へぇ、そんなになんだ」光莉は何度か頷いて返事をする。「ちなみに、どういうところが記憶を無くしたい?」


「ネタバレにならないように出来なくはないですが」美波は片方の口角を上げる。まさに不敵な笑み。「語ると、長いですよ?」


 見たことのない表情に少し驚きながらも、光莉は洗濯機を一瞥する。そして、同じく不敵に微笑んだ。「大丈夫、まだ暫くは終わらないから」


 和気あいあい、まさにその表現が適している雰囲気。そんな二人を、片桐は自動ドアのガラス越しに眺めていた。

 中に入ることはせず、自動ドアのマットの上から一歩下がったところに立っている。手には蓋の開いていない、新しいワンカップ酒。


 そんな二人のやり取りを眺め、優しく微笑んだ。


「ほらやっぱり。僕の目に狂いはなかった」


「あのぉ……」


 男性の声が聞こえる。片桐にも聞こえてはいた。だが、無視をする。別に意地悪とかではなく、どこかからか聞こえてくる声が偶然耳に届いただけだと思っていた。


「あのぉ、すみません……」


 だがその声が段々と、自身に向けられていると気づき始めた。


「はい?」


 片桐が顔を向けると、そこには制服の警察官が立っていた。制帽のつばを軽く持ち、訝しげな表情で片桐を遠巻きに、けどまじまじと。


「そこで、何をされてるんですか」


「ふぇ?」


 近づいてくる警察官。「店内を覗いてますが、何か?」


 片桐は、今自身が置かれている、状況を理解する。洗濯物は持っていないのに、コインランドリーの中を覗いており、二人の女性を見て微笑んでいる。手には日本酒。そして、既に飲酒。


「あっ、成る程。成る程」


 羅列すればするほど、分かってくる。


「これは、なんとも分が悪いな」


 ぼそりと片桐は呟いた。


「は?」聞こえていた警察官。眉には濃い皺が出来る。「分が悪い、とは一体何のことですか」


「いえ、こちらの話です。完全に個人的な話」


 片桐は鼻緒が足の指の間にしっかりはまるよう、指先を這うように動かす。


 警察官はコインランドリーの中を見ようと上半身を動かす。


「見えないなぁ……、あのぉ、コインランドリーの中の一体何を見て……」


 警察官が再び片桐に目線を向ける。が、片桐は既にいなかった。

 視線を上げ、真っ直ぐ先の向こうを見る警察官。


 いた、走っている片桐が。


 ただがむしゃらに両足を動かしている。その距離は、最初に警察官が見かけた時よりも大きく開いており、またその間はみるみるうちに広がっていく。へたった草履で、だというのに、まるでスパイクでも履いているかのような、そんな尋常でない速さだ。


「ま、待てっ」


 警察官の叫びは、夜の静かな街にとてもよく響いたのであった。

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