2.事実は小説より、なんとやら
光莉は、自制の効かなくなった口をあんぐりとさせたまま、固まった。言葉を失う、とはまさにこのことである。
しかしながら、腑に落ちたことが一つあったのも事実。光莉と片桐とが出会ってもう一ヶ月ほど経つが、確かに一度も、洗ったことを見たことがない。光莉が洗濯を始めれば、片桐が始めるのは雑談ばかり。いや、雑談のみ。雑談しかない。
最初の頃は、いつ洗濯するんだろう、という頭の片隅に疑問が浮かんでいた。だがそれも日と時間の経過、顔を合わせる機会が増えるにつれ、そのうえ疑問の些細さや小ささも相まって、薄れていった。結局のところ、ついさっき話題に出るまで、気にすることすらなくなっていた。
「二年ぐらい前になるかな。商店街の抽選会で当てたんだ。独り身にしては、結構デカいタイプでさ」
片桐の口調はなんとも呆気なく淡々として、何の違和感も疑問も持っていない様子であった。
「ほら、すぐそこの商店街で、年に一回開催される。あっそういえば、あともうちょっとで抽選会って始まるんじゃ……」
「い、いやそこはいいんです。大したことじゃないんです」光莉は手を振って、脱線しかけた話を無理くり止めた。「だったら何故、なんでわざわざ来てるんですか。来る必要ないのに」
片桐は何か言いたげに、どこか遠い目をしながら、手元の酒を手にした。
「大事なのは必要かどうかじゃないよ。来たいかどうか、その意思さ」
片桐は意味の分からない満足げな微笑みを浮かべると、呑まずに置いた。
「反応の良いんだか悪いんだかよく分からない自動ドアをくぐってくる人をぼんやり眺めたり、片隅で垂れ流されてるラジオを肴に酒呑むのがこの上なく心地良いから、来てるの」
「なら居酒屋は? ラジオは無くても、人間観察って意味ではここより多様で面白いんじゃ? お酒だって飲めますし」
「居酒屋だとなんか食べる物頼まなきゃいけないじゃん。けど、夜食べるとめきめき増えるじゃん。この歳になると、増える割には減ってくれないんだよ」
脇腹を軽く叩く片桐。そんなことを気にする必要ないぐらい痩せ型ではないか。光莉は頭の中で呟いた。
「じゃあ、バーは?」
「……ただの飲んだくれ、と思ってる?」
片桐は心の声を漏らし、ワンカップを傾けた。
「そんなことないですよ」
「ホントにぃ?」顔を斜めにし、光莉を見る目を細めた。明らかに怪しんでいる。
「ええ、その証拠にほら」自信満々の光莉。「アタシ、敬語です」
「……敬語なら、全て敬うことにはならないからね?」
またも訪れる沈黙。洗濯機の回る音が、コインランドリーの中で反響する。
「とにかく、酒が呑めりゃいいってもんじゃない。それに、おしゃれなとこは僕、苦手なんだ」
まさに、普段着が作務衣の人らしい、ふさわしい答えに、光莉は思わず反応しそうになる。だが、それを言えば、またツッコミ口調で何か言われるだろうと悟り、代わりに「はぁ」と溜息にも似た返答をした。
「とまあ語ったけどさ、確かに僕にもよく分かっていないとこがある。だってさ、コインランドリーに洗濯以外の目的はないわけじゃん? コンビニみたいに、目的がなくても時間潰しみたいな感覚で、ふらっと立ち寄るような場所ってわけでもな……あれ? どうした、そんな恐れ慄くような顔しちゃって?」
「ちなみにですが」光莉は少し覗き込むように、物珍しいものでもあるかのように、片桐をじっと見つめている。「今……も、怪談話してます?」
片桐は背を起こす。「安心してくれ。現在も過去もしてないし、これからするつもりはない。微塵も」
「だとしたら、余計に怖いです」
「あれ、そっちに転んだ?」
「ええ。おかげさまで倍増です」
「あらま……てか、そんなのはどうでもいいの。とにかく今、僕が伝えたいのは、エトーちゃんがここの居心地良くなっちゃったがゆえに洗濯機を買う気が失せちゃう、なんていう、コインランドリーの沼にハマってるんじゃないのかって思ったってことなのよ」
「沼、ですか」
片桐は何か思いついたように、目線を上げる。「けど、心配ご無用さ」その顔つきは自信に満ちていた。
「というと?」
「ここはコインランドリー」にやりとする片桐。「沼にハマっても、すぐ洗濯できる……ってね!」
沈黙は不意にやってくる。嫌なくらいに。前触れなど与えない、与えてくれやしない。少しでも対策対応ができればいいのだろうけど、そんなことは不可能だ。
そのせいで、ゴゴゴと、奥で自身の洗濯物が回されている激しい音が、うるさいぐらいによく聞こえてくる。
まさに今がそれ。駄洒落、というある意味中年男性のリーサル・ウェポンを放った片桐がどこか満足げであったのは、気のせいなんかではないということを証明していた。
そうなると、この空間を打破するには、もはやこれしか手段はない。
「片桐さんっていつもその、作務衣と草履ですよね」
奥義。あけすけでもいいから無理矢理話題を変える、である。
「うん、多くは語らず、でいいよ」
服といえば、で思い出した光莉は、少し棘のある言い方にして話題を変えた。紺色の作務衣と鼻緒が切れそうなへたった草履はいつもセットである。
「ずっと同じのを着てるみたいな言い方しないでくれよ。全く同じのがあるだけで、全部ちゃんと洗ってるよ。オバQと一緒よ」
「オバQ?」
「うん、ジェネレーションギャップっ」
ショックのあまり、片桐はそう叫んでから、「まあ、分からないならいいよ」と声のトーンを下げ、ワンカップを苦い顔しながら傾けた。
「まだ季節が大きく変わってないからね、見たことないだろうけど、夏冬で袖丈が違うのを着てるんだよ」
「あっ、そうなんですか」
「そうさ。一応は、清潔さとTPOは弁えてるつもりだよ」
「草履は?」
「草履は……」
口を半開きにしたまま、片桐は虚空を見つめ、動かなくなる。記憶から探し出す、いや捻り出そうとしている様子がはっきりとうかがえた。
結果、絞り出すところまで努めると、顔と目線の向きはそのままで、口だけゆっくりと真一文字に閉じた。
「……あっ、つっかえちゃうんですね」
「そうね、反論の余地無いことが判っちゃったからね」
余地無いんかい、思わず声に出そうになる光莉。
尋ねても仕方ないとは思いながら、とはいえ試しに光莉はたずねてみる。「他の服とか着ないんですか?」
「着ない」片桐は首を横に振る。
「ちなみに、持って……」
「もいない」光莉の言葉尻を奪うように、重ねて話してくる。「とっくの昔に捨ててきたよ。
またしても飛び出す駄洒落。二度撃ちされたら、どんな強者も太刀打ちできない。アマチュアのお笑い芸人でも、ましてやプロの芸人でもない、ごく一般的なただの素人に、跳ね返すことなどできやしない。
「けど、他に服が無いと、困っちゃう場面とかありませんか?」
「例えば?」
「例えば……ほら、冠婚葬祭とか」
片桐ぐらいの年齢まで生きていれば、婚も葬もすでに二、三回ぐらいは経験していてもおかしくないことだ。
「心配いらないよ。そもそも呼ばれないんだから」何故か鼻高々な片桐。
「……寂しいですね」
「おいおい」嘲る片桐。「寂しいかどうかってのは、人が決めるもんじゃない自分が決めるんだ」
「じゃあ、寂しくはないんですね」
片桐は、虚空というには近過ぎる、どこか遠くを見つめるだけで、返事はしなかった。
「……寂しくないんですね?」
「エトーちゃん。だいの大人が遠い目をしたらそれは、もうそれ以上は聞かないでおいて、ってことだよ」
「やっぱり、寂しいんじゃないですか」
今度はきっぱりと告げ、光莉はまた自動ドアを一瞥したのであった。
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