3.気になるあの人

「どうかしたの?」片桐は思わず問いかける。


「え?」


「さっきからちょくちょく気にしてるよね」


 繰り返しの動きに気づかれ、光莉は「いや、ちょっと」と言葉を濁す。


「あぁっ」


 歯切れの悪さから、片桐は表情を緩めた。その表情は、良からぬことを思いついた小学二年生のように不敵なニヤつきであった。


「なんです?」


「ミナっちゃん、でしょ?」


 微かに肩を動かす光莉。擬態語で表すならば、ぎくり、というのがぴったりであった。


「会いたくて来ちゃったってわけか。確かに金曜なら、会えるかもだもんね〜」


 ちらりと光莉を見た片桐。その目は、まるで水族館を泳ぐ餌を食べたばかりの魚のように、泳いでいた。


「目は口ほどに物を言う、とは、まさにこのことだ」


 光莉は反論のために何かを言おうと口を開くが、すぐに閉じた。

 確かに、会いたい、という行動に誤りはない。しかし、動機はまた別だ。

 そもそも光莉が金曜に来るのは、仕事が休みに入る週末だからだ。それによって、結果的に、美波たちに会ったのである。

 だが、それをいちいち訂正と補足することに、光莉は億劫だと感じ、何も言わないことにしたのが、口をすぐ閉じた理由である。


 片桐は背筋をより曲げ、頬杖をついた。「洗濯機を買わない理由も、そこにあったりして」


 それになにより、真っ先に、そして真っ向から否定しなければいけないことが今はある。


「無いですよ。まずアタシは、買うまでの間、とは確かに言いましたけど、とはいえまだ暫く先。大きな買い物ですからね。次のボーナス出るまでは、少なくとも近づくまではお財布事情的に難しいです」


「あんらまぁ、社会人は大変だこと」


 そのあっけらかんとした物言いは、自身が当事者ではない、関係のない第三者。まるで、自分が社会人ではない、と言わんばかりのであった。


「そういえば」その反応を見て光莉は問う。「お仕事って、何されてるんですか」


「おっ、合コンみたいなこと言うね」


 一対一なのだから、どちらかと言えば、お見合いではないか。そう脳裏をよぎったが、流した光莉であった。


「では、逆に問うてみよう。何だと考えてる?」


 面倒くさいフリである。「想像がつきません」と、逃げる光莉。


「あっ、ずるい」


「この手の質問で、ずるいってあるんですか」


 無いでしょうというニュアンスを含めて発すると、光莉は視界の端に動く人影が見えた。引っ張られるように、思わず顔を向ける。それは、自動ドアがぎこちなく開いたのと同時であった。


 光莉は立ち上がる。「浜音さんっ」


 名を呼ばれるとはつゆほど思っていなかった美波は、肩をびくりと動かした。思わず、持っていた洗濯物を落としそうになる。


「は、はい……」


 店内に入るために動かそうとしていた足を思わず止める美波。そのせいで、自動ドアは開きっ放し。


 訝しげに凝視する目と窮屈に窄めた肩は、美波が怯えている、ということを光莉に伝えてくれた。


「驚かせて、ごめんなさい」


 すぐに謝る。だが、その距離は短くなる。光莉が詰めたからだ。美波は眼鏡のよろいの部分を掴み、位置を直す。


「おどかすつもりはなくて。その、浜音さんにひとつ、相談にのって欲しいことがあるの」


「わ、私に……ですか?」と、自身の顔を指差した。


「うん」こくりと頷く光莉。


「な、なんでしょうか」


「実はアタシの……知り合いがね、最近妙な体験をして。まあ聞いてみると確かに、ちょっと変というか、奇妙というか。だから、前、ラジオを聞いただけで、解いちゃった浜音さんのお力を是非お貸しいただければなぁと思って」


 いや、あれは結局解け切れてなかったですが……と美波は喉元まで出かかる。


「ダメ、かな?」


 しかし、少し遠慮して覗き込むようにして見ている光莉の駄目押しの一言に、黙って言葉を飲み込む。


「お、お力になれるか分かりませんが、それでも宜しいのであれば……」


「やったっ」


 光莉は小さくガッツポーズをし、柔和な表情に。そして、待っていましたと言わんばかりに早速、語り始めた。


「その知り合いが働いている会社に、弐瓶にへいさんという女性の先輩が勤めていて。その知り合いと弐瓶さんは、所属している部署こそ違えど、知っている……いや正確に言えば、弐瓶さんはちょっとした有名人だから、その知り合いのほうは弐瓶さんのことを知っているって感じで」


「それは世間的に? それとも、社内的に?」


 片桐は酒で覚束なくなった足を引きずってきた。


「盗み聞きは良くないですよ」向けた光莉の目線は少し冷たかった。


「自然と耳に届いただけだよ。そんなことよりも、どっち?」


「社内的です」


「だよね、まあ予想通りだ」


「その……それで、な、何故有名なのでしょうか」割って入り込むことに少し申し訳なさそうに、美波は尋ねる。


 ああごめん、と光莉は視線を戻した。「すっごく、猫背・・、らしいの」


「猫背、ですか?」


「そう。もうね、ここまで首が七十度ぐらい折れ曲がってて」光莉は実際に曲げて見せる。「それで、肩はぐっと内側に巻き込んじゃって、目線なんか普通にしてたら胸元辺りに来ちゃうぐらい。そのせいで上目遣いで見てくるんですが、髪が長いこともあって、なんていうんですかね、髪の隙間から、目が見える感じになるみたいで」


 傍らで聞いていた片桐は、「あぁ、呪いのビデオの。一週間後にテレビから出てくる、みたいな」と、後ろにあるカウンターに肘をついてもたれかかる。


「まさにそうです。まあ話しかければ特段変な人とかではなく、当然仕事の話とかもしますんで、普通に会話はできるんですけど……でも、怖くないですか?」


 少し考え、「うん、怖いね。話しかけるのを少し躊躇っちゃうかも」と、片桐は応えた。


「ですよね」呼応するように、光莉は共感の声を上げると、トーンを下げようと咳払いした。


「会話とかお昼とかに参加せず、職場ではずっと独りで。だから、いわゆる、人見知り、だとみんな思っていたみたいなんです」


「思っていた、とはまた随分と含みのある言い方だね」片桐は顎を掻く。


「そのことが、ほ、本題に繋がるんですかね」


 光莉は、よくぞ言ってくれた、という雰囲気で続きを語る。


「つい先週、その知り合いが休みの日に街のカフェで弐瓶さんに会ったらしいんです。背筋を伸ばしていた弐瓶さんに」


「背筋を伸ばしていたってことは、その時は猫背じゃなかったんだ」


「はい」光莉は頷き交じりに返事をする。「見た目的にこう、無理矢理伸ばしている、という感じはしなくて。むしろ、猫背なのがわざとしているんじゃないかって思えるぐらい、それぐらいしっかりと綺麗に伸びていたらしいんです」


 片桐は鼻の頭を掻いた。「そこまで見た目が違って、その知り合いはよく、弐瓶さんだと気づいたね」


「だから最初のほうは気づかなかったらしいです。けど、ほら、知り合いの人と会うとなんとなーく雰囲気で察することあるじゃないですか。それで、なんか見覚えあるなーと、ちらちら見ていたら不意に、あれはもしかして、となったみたいです」


「他人の空似とかではなく、かい?」


「知り合い曰く、あれは間違いなく弐瓶さん、だそうです」


「自信満々だね」


「その時のことですが」美波が話しかける。「そのお知り合いの方は、に、弐瓶さんには……」


「多分気づかれなかったと思うよ。まあ、弐瓶さんは高身長で、知り合いはアタシと一緒で背が低めなの。だから、視界に入りづらかったっていうのがあるかも。それに、弐瓶さんは誰かとお喋りしていたみたいだから」


「ということは、その場には、弐瓶さんのお連れの方がいらっしゃった?」


「うん。まあ、背を向けて座っていたから、誰なのかとか、そもそも顔まで見れてはいないらしいんだけどね。ただ、格好からして女性だってことと、仲良さげに話してはいたってことは、分かってる」


「成る程」美波は少し視線を落とした。瞬間、雰囲気ががらりと変わる。どうやら推理モードに切り替わったらしい。


 光莉は話を続ける。「姿勢もそうだし、喋って笑う雰囲気は、会社にいる時とまるで別人で、知り合いは驚いて。で、休み明け、仕事の休憩時間に、会社の別の先輩にそのことを話してみたんです。そしたら、実はその先輩、弐瓶さんと営業マンとして、同じ部署にいた時期がほんの少しだけあったそうで。確かに以前から一人を好む感じではあったみたいんですけど、そもそもの会話を避ける今のような感じではなかったらしいんですよ。それに、その時はショートヘアにしていたって」


「そもそもずっと前の雰囲気とすら、全然異なるわけだ」片桐は頬の辺りを掻いた。


「しかも、ショートヘアにしていたのが、長い髪が鬱陶しいからって理由らしいんです」


「ほぉ」片桐は口を縦に広げた。「性格まで変わっていたと」


「ええ。その先輩は地方へ転勤となっちゃったんで、東京に戻ってきたのもつい最近で。だから、長髪になっていることに……いや、そもそもその先輩は弐瓶さんと同じぐらいの背丈だったと覚えていたのに、突然首を少し落として肩をぐっとすくめた丸い姿勢に小さくなってて、すごく驚いたみたいです」


「そりゃそぉーだ」


「だから気になって、何があったのか、尋ねたらしいんです。けど、弐瓶さんは、対して自分をあまり覚えていない様子で、どこか会話が噛み合わずに、上手く聞き出すことができなかったらしくて。まあ、一緒に仕事した時期も短かったから、仕方ないとは思ったらしいんですけど、その先輩はまるで人が変わった弐瓶さんを見て、こう思ったらしいです。もしかして、昔の弐瓶さんとは、別人・・なんじゃないか、って」


「は?」


 片桐は素っ頓狂な声を出したまま、口を開けっぴろげにした。


 一方、美波は何も言わない。しかし、両者とも、鳩が豆鉄砲でも食ったように目を丸くしていたのは同じであった。


「ほら、聞いたことないですか? ドッペルゲンガー・・・・・・・・ってやつ」


「まったく……」片桐は少し呆れ顔でため息をついた。「映画の見過ぎだよ」


「あと、その先輩は、宇宙人が地球侵略するために擬態して、少しずつ本物の人間と入れ替えていて、弐瓶さんはそのニセモノのひとりなんじゃないか、とも言ってた」


「訂正。オカルト雑誌の読み過ぎ」


「あはは……」光莉は苦笑いを浮かべる。


「では、そのお知り合いさんも、そう思っている、というわけですね」美波は尋ねる。


「あっいや、彼女はまた別で」光莉は何故か少し小声で、顔を寄せた。「二重人格・・・・なんじゃないかって思ってるんです」


「おっと。まさかの新意見」片桐は困った表情をより濃くした。


「ちょっと、呆れないでくださいよ。まだこっちの方が信憑性ありますでしょ? だってね、先輩を覚えていなかったってことにもあらかた合点がいきますし」


「言い過ぎたよ。ごめんごめん」


「けど、どうです?」光莉は二人に少し身を寄せる。「ちょっと気になってきませんか??」


「正直言うと、至ってノーマルなんじゃないかなって印象を受けたなぁ。仕事とプライベートをきっちり分けてる人ってな具合に。今の時代、そういう人が多くてもなんらおかしくはないんでね」


 片桐は淡々とした口調で続ける。


「髪形だって、ある時から突然変える人だっている。考え方が変わったりしてね。もしかしたら、東京という街がそうさせたのかもしれない。どちらにしろ、長く生きていりゃ、そういうこともありえなくはない」


 光莉は何かを言いたげだったが、唇を内側へ巻き込み、噛み殺すように噤んだ。


「しかし、気になることが一つ」


 そう口にしたのは、美波であった。その口調はもう、つっかえることのない、モードに入った美波であった。


「ちなみにですが、お知り合いの方がカフェで会った時、弐瓶さんが背筋を伸ばしていたのは、見かけたその時だけだったのでしょうか?」


「えっ、あっ、いや……」美波の問いかけに、光莉は言葉を濁らす。「いる時はずっと、だったと思うけど」


「となると、やはり、そうですね」俯く美波は顎に手を添え、その肘をもう片方の手で支える。「猫背というのが気になります。大人になってから酷くなる方はいらっしゃいます。が、時と場所によって、大きく変化するというのはなんとも。それに、昔は普通だった、という先輩の話も気になりますし」


 確かに、本当に猫背な人であれば、仕事でもプライベートでも関係なく、猫背のままだろう。


「カフェにいる時は意識して直していた、いう見方もできなくはありません……が、私はどうもそこに何かしらの意図があるかと思えてならなくて」


「それってつまり、わざと・・・猫背になってるってこと?」


 戸惑いは消えない。だとしたら、何故なのか。一体なんのためなのか。


 洗濯の終わる音が聞こえる。振り向くと、光莉が入れていたところの赤ランプが点滅している。


「あっ、ちょっとごめん。洗濯物だけ取り込んじゃう」光莉は洗濯機へと駆け足で向かう。


「あっ、そうだ私も」美波も、洗濯機の方へと向かう。


 光莉は扉を開け、黙々と中から洗濯物を袋に移していく。その二つ隣に、美波も扉を開け、黙々と洗濯物を機械の中へと入れていく。


「あ、あのぉ、光莉さん」


「ん?」美波に呼びかけられ、手を止める。


「もし可能であれば、で結構なのですが」


 洗濯物を機械へ入れながら、美波は美波を見ていた。


「そのお知り合いさんとは、今、連絡がとれたりしますでしょうか」


「え?」まさかの問いかけに、光莉は思わず手を止めたが、すぐに再開する。「な、なんで?」


「ちょっとお尋ねしたいことがございまして。難しいですかね」


「うーん……そうだね」


 全て入れて、光莉は乾燥機の方へ。美波を囲むような形で、反時計回りに歩いていく。


「た、多分大丈夫だとは思うけど。ちょっと確認してみてもいいかな?」


「勿論です。お願いできますでしょうか」


「うん」


 光莉はおもむろにスマートフォンを取り出すと、両手で画面に触れた。無料の連絡ツールアプリを開く。慣れた手つき、いわゆる早打ちというべきスピードで、文字を打ち込んでいく。


「後は返答待ち」そうして、光莉は乾燥機に洗濯物を入れる。


「ありがとうございます」美波は会釈する。

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