知らない表情の彼②

「あ、あの、ぼ……わ、わたし……」

「ん?」


 言葉少なに促す声のトーンが出会った頃の秀次様と重なる。

 けれどそれ以上に暴力のにおいがするのだ。

 秀次様の癇癪じみたものとは違う、人を屈服させるための力。

 何もできない子どもと錯覚させるような圧。


 何か言わなくては。そう思うのに言葉が出ない。秀次様に捕まる前だって、ナンパをかわしたことは何度もあるのに。


 頭が真っ白になって固まっていると、突然視界の外からぐいと肩を引かれた。

 タタラを踏んだ僕の目に見覚えのある後ろ姿が飛び込んだ。


「何やってんの」

「何ってアイサツじゃん。そんな怖い顔すんなよな」


 僕を背に隠すように前へ出た秀次様が、優等生仕草など見る影もない普段よりも堅い低い声で問いただす。


 けれども自称兄は軽薄な姿勢を崩さない。

 なのに目つきは剣呑でいて、僕を追い詰めていた時よりもずっと愉しそうだ。


「まさか俺がお前の彼女に粉かけようとしているとでも思ったのか? それで焦って駆けつけたって? ハハッ、随分と可愛らしいナイト様だな。優しいお兄様がそんなことするわけないだろう」

「どうだか。アンタが嘘つきだってことはよく知ってる。また俺のもんに手ぇ出しやがって」

「口調、乱れてんぞ優等生」

「アンタ相手に取り繕う必要なんかねえよクズ」


 睨み合う2人の周囲の気温がぐっと下がっていく心地がする。


 時間がひどくゆっくり流れていて、僕らだけ世界から取り残されているようだ。

 その中で、僕だけが蚊帳の外。


 知らない態度の秀次様と、彼の仮面を剥がして悪いところばかり凝縮したような自称兄が対峙している。


 後ろ姿しか見えないからわからないけれど、きっと、表情かおも何もかも、僕の知らないものなのだろう。


 それがなんとなく嫌な気がするのも嫌だ。


 ああもう、秀次様と会ってから僕はおかしくなってしまった。

 腹の中でぐるぐる抱え込むよりも、ダメなことまで全部口に出てしまうタイプだったろ僕は。


 深く息を吐き、覚悟を決める。

 今の僕は、何を言っても許したくなるふわふわした可愛い女の子なんだから。


 白くなるまで握りしめられた秀次様の左手をそのまま両手で包み込む。


 驚いたような雰囲気を感じたけれど、構わず「秀次さん・・」と名前を呼んだ。


わたし・・・は大丈夫だから、もう終わりにしよう?」


 秀次様の話をつなぎ合わせた架空の彼女。

 それでいて、健気で可憐で愛される都合のいい空想上の偶像。


 非実在彼女の仮面を被り、普段の秀次様のような非の打ちどころのない綺麗な笑みを浮かべる。

 そのまま身を乗り出し、視線を自称兄へと向けた。


「お兄さんも、お引き取りください。これ以上何をしたって実のある話にはならないわ」

「……へぇ」


 自称兄は愉快そうに目を細め、舐めるように僕を見やる。


 非実在彼女ユキナはここで目を逸らしたりなんかしないし、気迫で負けたりしない。

 交錯する視線を先に外したのは向こうだった。


「いいよ。ユキナちゃんに免じてここまでにしてあげる。面白いもんも見れたしな」


 そう笑って去っていく背を睨め付けるように見送り、その姿が見えなくなった時、急にどっと疲れが襲ってきて思わず座り込む。


「仁科!?」


 珍しく本名で呼ぶ秀次様を見上げてへらりと笑う。


「気ぃ抜けたら腰抜けちゃって」

「……悪い。巻き込んだ」


 気まずげに差し出された手を頼りに身を起こし、肩を借りてなんとか立ち上がる。

 ……これ、絵面大丈夫だろうか。


「ありがと。でも殊勝すぎて気味悪い」

「お前なあ……」

「ねえ、ユキナは秀次様のものなんだろ? 所有物のメンテは必須だと思うんだけどな」


 ああ、ダメだ。失敗した。なんだか昔に戻ったみたいに思ったことが全部口から出る。さっき喧嘩買ったせいかな。


 秀次様が呆れたような表情を浮かべていて、まずい、と思った。

 契約違反。嫌われる。違う。バラされる。


「あ、ごめん……」

「まあ、うん。一理ある。そもそもこの状態で帰したら俺がクズみたいだろ」

「え?」


 僕の戯言で気を悪くした風もないことが信じられなかった。


 今日は秀次様もどこかおかしい。

 なんだか要領を得ないまま、近くのカフェで休憩して駅まで送ってもらって解散した。



 ……これ、もしかして本格的にデートでは?

 もう疑惑を否定することはできなかった。

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