萌え文化私観

 独身中年男性、狂ってきたので今のうちに書き残しておく。「レーショーケー」の「チセー」を感じさせる文章で、だぜ。


 二〇〇〇年代の中頃、上京したての僕が好んで読んでいたエッセイに本田透さんの『電波男』というのがあります。


 この本の中で本田さんは『電車男』を批判しているのですが、そこでは始終リア充的な(今でいう陽キャ的な)価値観を基準にして物語が展開しているということが指摘されていました。

 

 どういうことかというと、『電車男』においてはエルメスという現実女によって、電車男というオタク(今でいう陰キャ)がリア充へとオルグされるという(「オメデトウ、アリガトウ」的な)図式になっています。


 しかし、それが真にオタク的な作品であるならば、逆にエルメスがオタクの側に導かれなければおかしいではないかというわけです。


 当時、これを読んだ僕は、何も考えず無邪気に『電車男』に感動していた自分を深く反省したものです。受動的ではない、主体的な価値観の選択というものを初めて意識したわけですね。


 では、その「真にオタク的な作品」とは、具体的にどういうものなのか? そこで僕はライトノベル『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を例としてあげるわけです。


 僕の生涯の伴侶である黒猫ちゃんがいかに可愛いかはという話は置いておいて……、この作品は、主人公とその妹がオタク文化をきっかけに関係性を回復していく物語です。


 そこではメインヒロインで妹の桐乃ちゃんが、ファッションモデルというリア充的なるものの象徴であるかのようなオシャレな仕事をやっているにもかかわらず、重度のエロゲオタという設定になっています。


 すなわち、ここにおいて『電車男』の図式は完全に逆転し、エルメス(=他者)さえもがオタク化・萌えキャラ化し、つまり、オタクがリア充に対して完全勝利しているのです(やったぜ!)。


 ちなみに、僕が初めて「ツンデレ」という言葉を耳にした時、それはノベルゲーム『君が望む永遠』の大空寺あゆに対して使われていたように記憶しています(『君のぞ』は二〇〇一年初出)。


 第四世代(Z世代)の人は想像できないかもしれませんが、オタク第一・第二世代の人たちはマジもんの差別を受けていたし、第三世代(ミレニアル世代)だってライト化を批判されてはいたけれど、それは鎌倉新仏教における大乗化の極みみたいなもので、ニッチな萌脈ほうみゃくを追う楽しみが、まだあったのじゃ……。


 転じて昨今は、同時代における最大公約数的な配慮を要求されるためか、各ジャンルにおける歴史性が希薄になってきているのだと思います(以下はイノベーター理論)。




 一.イノベーター(革新的少数者)

 二.アーリーアダブター(初期追随層)

 三.アーリーマジョリティ(前期多数派)

 四.レイトマジョリティ(後期多数派)

 五.ラガード(遅滞層)




 萌え最大の源流であるエロゲ文脈が忘れ去られた後で、この辺が少しモヤるようになってきていて、というのも上の世代に対してスノビズム(教養マウント)批判をする時に、萌えというある種のセンチメント(感情の大事)を主張してきた手前、「やっぱ教養だよね」とは言いにくいじゃないですか。


 キャラが好きなのが一番ですよ! でも自分の場合、属性を縦に追いながら「萌え」ているのであって、人気を横と比べて「推し」ているわけじゃない……。


 この辺に感性の違いがあるのではないかと、近所のヤバいおじさんは考えるワ・ケ・サ。


 さてさて。おじさん構文もだいぶ板についてきたところで、横広がりのデータベースってどうよ? という話なのでした。

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