第37話


        儀式



 カノンの部屋へ荷物を運び終わり、レンタカーの返却を終えたのが午後四時を過ぎたころだった。


 彼女と交代でシャワーを浴び、シャツを着替えてからふたりでビールを飲んだ。


「今日はありがとう。こんなふうにすべてがスムーズに終わるなんて、この部屋に移ったときには想像もつかなかったわ。あのときは逃げてきた虚脱感だけで、この先どうしたらいいのか分からなかったのに、今こうしているのが不思議」


「君は本当にこれでよかったのか?」


「こうする以外に私にどんな方法があるって言うの?夫婦関係は終わっているのよ。子供もいないのよ」


「うん、でも慰謝料や財産分与とか、普通は離婚にそういった問題が絡むんじゃないか。そんなことはもういいんだな?」


「何も要らない。だからこれでよかったの」


 私は期間限定のひとつの仕事を終えたような感覚になった。


 目の前のカノンは、私にひとつの仕事を与えるためにあの粗末で寂しい公園でウイスキーのポケット瓶をあおりながら待ち続けていたのだ。


 そして私は必然的にあの公園に足を踏み入れた。

 彼女は夫との離婚代理人の役を与え、私はそれに忠実に従い実行した。


 ひとつひとつの作業に疑問や戸惑いを感じることもなく、竜巻の渦の中での作業はあっという間に終わった。

 本当に今私はそんな感覚に陥っていた。


「どうしたの?」


「うん?」


「黙ったままだから」


 カノンはブルーチーズを小さくきったものをテーブルの上に置いた。

 でもビールには合わない。


「ワインが飲みたいな。あるかな?」


「分かったわ」


 彼女は冷蔵庫からよく冷えた白ワインを取り出し、ワイングラスに注いだ。


「友達からもらったすごく素敵なワイングラスがあったのだけど、家に置いてきちゃったわ」


「いいじゃないか、そんなもの。どうしても欲しければまた買えばいいんだ」


「そうね」


 井上氏の気になる言葉についてもう一度カノンに訊いてみようかどうか考えた。

 でも私はもう大阪に帰るつもりだ。


 東京に出て半年近く、ゲストハウスでのルームメイトたちとの様々な出来事やカノンとの突然の出会いから今日までのことは、きっと先々懐かしい思い出となることだろう。


 カノンのこれからの人生が関わることは考えていないし、彼女の意向も分からない。


 井上氏の「あいつを絶対に許さない」「あいつは赤ん坊を殺したんだ」という言葉について、カノンに問いかけたところでそれが何になるというのだ。


「ねえ、どうして黙っているの?」


「うん」


「うんうんばかり今日は言ってるじゃない。あなた、ちょっと疲れたんじゃない。ちょっと横になる?」


 カノンは心配そうに言った。


「いや、疲れているのは疲れているが、大丈夫だよ。それよりカノン、ひとつ訊いてもかまわないかな?」


「どうしたの?」


「前にも訊いたけど、井上氏が君を絶対許さないって言っていたことなんだが、本当にこころあたりがないのか?」


 私の問いかけに一瞬彼女の動きが止まった。

 表情が止まったようだった。


 しばらく彼女は考えていたふうだったが、それから手に持っていたワイングラスをガラステーブルの上に置き、私のほうを向いてゆっくりとした口調で「ないわ」と言った。


 彼女の目には、もうこれ以上何も訊かないでという強い意思表示が映っていた。


「それならいいんだ。訊いて悪かった」


「いいのよ、気にしないで」


 私とカノンはそれからどちらから求めたわけでもなくベッドで繋がった。

 最初にこのベッドで激しく繋がったときのようにカノンは貪欲だった。


「離さないで」とカノンは喘いだ。


 離したくはないと思ったが私には律子がいる。

 離さなければならないのだ。


 小ぶりな美しい彼女の胸のふくらみを掴んだ。

 カノンの喘ぎ声がさらに高くなった。キスで塞がないといけないほどの喘ぎ声だった。


「お願い、少し首を絞めて」


 唇を離すとカノンが叫ぶように言った。


 私は耳を疑った。彼女の言葉が信じられなかった。


「少しだけ首を絞めて欲しいの」


 私は繋がりながら、汗がにじんだ彼女の首の痣になった部分に両手をあてた。

 自分の意思というものがなくなってしまったかのように、彼女の首にあてた手をゆっくりと締めた。

 私の頭の中は朦朧としていた。


「ああっ」


 首を仰け反らせてカノンはさらに喘いだ。


 知り合ってからこれまでのセックスでは「首を絞めてほしい」などとは言わなかったが、夫の呪縛を解かれたことによって、彼女のこころの堰き止めが開いたのかも知れない。


 だが、私は彼女の表情を見て急に怒りがこみ上げてきた。

 その怒りは何に対してなのかは分からなかった。


「首を絞めて」と言った彼女への怒りなのか、こんな性癖を強いた井上氏へのものなのか、或いは私自身へのものなのか分からなかった。


 私はカノンへの愛しさに似た切なさと、憐憫に似た悲しみとを感じながら、彼女の首に当てた手にさらに力をこめて締めた。


 カノンの全身が弾んだ。白目をむいて悶絶した彼女の顔が左右に揺れた。


 顔は蝋人形のようになっていた。首に当てた手に彼女の喘ぎが伝わってきた。


 これ以上力を入れると窒息死すると思った。だが私はさらに力をこめて締めた。

 首の振りが激しくなり、全身が痙攣し始めた。


「ああああ・・・」


 半開きになった完璧な形の唇から涎が流れ出た。

 そして私はもう限界だった。


「グエッ」


 カノンの口から失神の呻き声が漏れた。


 私は彼女の身体に崩れ落ちた。そして次第に意識が遠退いた。


 ひとつの儀式が終わったと思った。

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