第36話
正式な離別
八月に月が替わった最初の金曜日、私は仕事を休んでレンタカーにカノンを乗せて都内を南下していた。
昼前に蒲田駅近くの大田区役所に立ち寄り、彼女は離婚届を窓口に提出した。
私は戸籍住民課の窓口でカノンが手続きを行っているのを、離れた待合席から眺めていた。
離婚なんて簡単なものだ。
私と妻が離婚したときも、彼女が差し出した離婚届に判を押し、数日後それを妻が役所に提出して戸籍上の関係は終わった。
そのとき私はなんとも形容し難い虚脱感に襲われたことを思い出した。
カノンの離婚手続きは三十分もかからずあっけなく終わった。
どんなに長く結婚生活を刻んでも、離婚手続きに要する時間とは何の関係もないことを物語っていた。
サヨナラ青春の手続きは一瞬だった。
「どんな気分?」
区役所を出て、彼女が夫と暮らした家に向かう車の中で訊いた。
「そうね、嫌な仕事をようやく終えたあとって感じかな」
「でも愛し合って結婚したんだろ?」
「それはそうだけど、でも誰だって最初はそうでしょ」
「おかしなものだな、男と女って。何百回も身体を重ねても別れるときは一瞬だ」
「そんなこと、今言わないで」
「分かったよ、悪かった」
カノンが暮らしていた家は区役所から北へ十五分ほど車を走らせたところにあった。
三ヶ月ほど前まで彼女が夫とふたりで住んでいた家だが、今は夫ではなく元夫となった。
近くには洗足池という大きな池があり、その池を守っているかのような大きな神社の北側に井上宅は位置していた。
周りは静かな住宅街で、ウイークデーの昼下がりは人の姿がほとんど見られず、蝉の鳴き声だけが世の中が動いていることを訴えているようだった。
東京にもこんな閑静な場所があることが俺にはとても意外だった。
そんな住宅街の一角にカノンと井上氏が暮らした家があった。
門を入った左手にわずかばかりの庭がある二階建の住居は、それほど大きくないが綺麗に手入れがされていた。
井上氏がツアーで数日留守をするので、その間に必要な荷物を運んで欲しいと連絡して来たのは二日前のことだった。
「三日ほど留守をするのでその間に都合がよければ運び出してくれないか。彼女が持っている家の鍵は、最後に郵便ポストに入れてくれればいいと伝えて欲しい」
井上氏は淡々と言った。
「最後に」という言葉を聞いて、本当にこれでふたりは別れてしまうのだなと実感した。
自分の別れではないのに、ふたりの離婚劇に俺が深く関与していることが不思議で、今更ながら違和感に似たものを覚えるのだった。
二階の彼女の部屋から運び出した荷物は軽トラックで十分足りた。
最も大きなものがドレッサーで、トラディショナルなかなり高級そうなものだった。
「ほとんど残していくわ。運んでも置く場所がないから」
「次に引っ越すまで部屋の隅にでも置いておけばいいんだから、あとで後悔しないようによく考えて」
「いいのよ、次の生活に入らなきゃいけないんだから、運べないものは仕方がないわ。あとは捨ててしまってもかまわないの」
ドレッサー以外は大部分が衣類だった。
あらかじめ用意していた何枚かの段ボール箱は衣類で溢れた。
高価そうなドレスや装身具も多く、カノンがここで経済的にも豊かな暮らしだったことが想像できた。
「高価なものばかりだな」
「昔はね、彼も売れっ子ベーシストだったから、贅沢していたのよ」
「それにしても綺麗な家だな。ここに井上氏はひとりで暮らしているんだな。勿体ないね」
「そんなこと言わないで」
「分かったよ」
すべて軽トラックに積み終えてから彼女は井上氏に一枚の書置きを残した。
書いた内容は分からなかったが、彼女はそれを井上氏の部屋の机の上に置いた。
井上氏の部屋にはギターやベース、それにキーボードなどの楽器や大きなアンプが無造作に置かれていた。
彼女はしばらくその部屋を見続けていた。
「どうしたの?」
「何でもないのよ。行きましょう」
私たちは井上氏の家をあとにした。
洗足池の蝉の鳴き声だけがいつまでも真夏の空に響き渡っていた。
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