第35話



  再び歌音(カノン)の夫 二



「井上さん、彼女ばかりを責めるのはおかしいんじゃないか?あんただって子供が亡くなってから彼女に酷いことをし続けたんだろ。体調が優れない彼女を強引に・・・そして彼女を家畜のように扱って、二階から降りてこさせなかったらしいじゃないか。

 仮に彼女が発作的にやってしまったことだったとしても、夫婦ならそれを庇ってやるべきじゃなかったのか?あんたに彼女を責める資格があるのか?」


 私は無意識に口調が激しくなっていた。


「フフッ。小野さん、あんたあいつとやったのか?あいつ、小柄だが良い身体してるだろ。どうだった?一度首を絞めながらやってみるといい。きっとあいつ、気を失うくらい喜ぶぜ」


「何てことを言うんだ」


 私の右手が無意識に動き、拳が井上氏の左頬を軽く掠めた。


 目の前のウイスキーグラスが床に飛んでガシャーンと割れた。

 その音にカフェのスタッフが驚いて飛んできた。


「あんたの好きにすればいい」


 そう言って井上氏は左頬に軽く手を当てながら椅子から立ち上がった。

 そして一旦背を向けてから再度振り返って言った。


「あいつにひと言だけ伝えて欲しい。昔みたいに輝いてくれと俺が言っていたと、そう伝えてくれないか。

 それとくどいようだが、さっきの話は絶対に他言しないように。それだけは守ってくれ」


 彼は最後にそう言い残してカフェを出てエレベータに消えた。


 私は頭が混乱した。井上氏が立ち去ってから三十分近くも席から動けなかった。


「あいつが殺したんだ。間違いない」と吐き捨てるように残した彼の言葉が何度も木霊のように頭に響いた。


「お客様、大丈夫でしょうか?」


 カフェの女性スタッフの声に我に返った。


「ああ、どうもすまない。割れたグラスの分も請求してください」


 私は夢遊病者のような足取りでそこを出た。

 今夜のうちにカノンに会いたいと思った。



 カノンの部屋に着いた時刻はすでに午後十時を過ぎていた。

 彼女はバスルームから出て、髪にドライヤーをかけていたところだった。


「終わったよ」


「あなた、どうしたの?」


 カノンは私の様子に驚いたようだった。


 私は上がってすぐにカノンを抱きしめた。両手で彼女の顔を挟み、唇をぶつけた。

 息が止まってしまいそうな長いキスに彼女が呻いた。

 胸に両手を当てて逃れようとした。


 私は片方の手で胸のふくらみをわしづかみにし、もう片方の手はカノンの後頭部を掴んだ。

 まだ半乾きの長い髪が腕に絡んだ。カノンは強引なキスから逃れようとしたが、後頭部の手に力を入れて唇を離させなかった。

 合わされた唇の隙間から呻き声に似た叫びが漏れた。


「乱暴はやめて!」


 私の腕を撥ね退けてカノンは叫んだ。


「やめて、どうしたっていうの。何があったの?」


 私は彼女を抱きしめたままベッドに押し倒した。

 首筋にはまだ紫色の痣が筋になって微かに残っていた。

 この痣をつけた男とついさっきまで顔を突き合わせていたのかと思うと、激しい怒りがこみ上げてきた。


 奴の顔を掠めただけに終わった右手の拳が震えた。

 私はカノンの小さな胸のふくらみを強く掴み、噛みつくようにキスをした。


「お願い、やめて!こんなの嫌よ。何があったのか説明して」


 カノンは私の身体を全身の力で押し戻し、叫ぶように言った。その時ようやく私はハッと我に返った。


「ごめん、悪かった」


「酷いわ、いきなりこんなことするなんて」


「すまない、俺はどうかしていた。あいつがおかしなことを言ったものだから、それを思い出してつい興奮してしまったんだ。許してくれないか」


 カノンはしばらくの間、身体を震わせて泣いていた。

 私は自分の行為に頭を抱えた。


「悪かった。許してくれ」


 私はもう一度カノンに詫びてから、こころの疲れと汗を流すためにバスルームに入り、シャワーを浴びた。


 バスルームから出ると彼女はベッドに座っていた。

 ベッド脇の小さなテーブルに冷たいコーラが用意されていた。


「冷たいものを飲んで落ち着いて。あなたきっと疲れたのね。ごめんね、大変なことを頼んで」


 カノンはコーラを差し出しながら言った。


「いや、ちょっといろいろと考えておかしくなってしまった。もう大丈夫だ。悪かった」


 私はカノンの身体をもう一度抱き寄せた。そして今夜のことを伝えた。


 井上氏の言葉に我慢ならず、思わず手を出してしまったことも正直に伝えた。


「あなたが彼を殴ったの?」


「いや、テーブルを挟んでいたからね、彼の頬を掠めただけだから殴ったという言葉は当てはまらないな」


「でも手を出したのでしょ?」


「あまりにひどいことを言うものだからね、無意識だったんだ」


「彼は何もしなかったの?」


「ひと言だけ残して立ち去ったよ」


「えっ?」


 カノンが私の目を見た。そのとき、彼女を以前どこかで見た記憶が蘇った。

 それは遠い昔だったような気がした。


 右の目の上のあたりまで被さる髪と厚い涙堂、芸術的な鼻と完璧な形の唇。

 確かに彼女の顔をずっと昔に見ていると思った。

 だがどこで彼女を見たのかは全く思い出せなかった。


「ひと言だけって?」


「君に昔のように輝いて欲しいって、そう言っていた」


「そう・・・」


「どういう意味なんだろう。君には分かるかな?」


 私の問いかけにカノンは答えなかった。一点をじっと見つめて、しばらく黙ったままだった。


「カノン」


「えっ?」


「変なことを聞くけど、俺、君と昔どこかで会ったような気がするんだ。錯覚かもしれないんだけど。君はどう?」


「私によく似た人かあなたの記憶違いじゃない。公園で会ったのが最初よ」


「そうだよな、ともかく離婚届をもらってきたよ。ちゃんと井上氏の判が押してある」


 そう言って、鞄から書類を取り出し、彼女に手渡した。


「ごめんね、本当に」


 受け取った書類を彼女はしばらく見ていた。

 しばらくして頬を一筋の涙が流れた。


 その涙は離婚が現実的になったことへの嬉し涙なのか、或いはその他の理由なのかは分からなかった。


 私とカノンはその夜、身体を繋がずに抱き合って寝た。

 お互いが抱えるこれまでの辛い思いを、きつく抱き合うことで少しは癒そうとするかのようだった。

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