第34話


   再び歌音(カノン)の夫 一



 翌日、私は午後八時より少し前に都庁の北展望台に着いた。

 展望台から眺める東京の夜景は実に素晴らしかった。


 高い場所から夜景を眺めたことがあるのは先日のMタワービル以外には、奈良の生駒山から見た大阪の夜景や、尾道のビジネスホテルからの夜の瀬戸内海などが思い出されたが、都庁からの夜景の美しさは格別だった。


 大阪は東京ほど緑がない。東京は意外にも緑が多い。


 カノンと出会った公園は寂しく粗末なものだったが、都内には緑が溢れた素晴らしい公園がたくさん存在する。


 だが、私はこの問題を片付けたら大阪に戻るつもりだ。考えは変わらない。



 午後八時ちょうどに井上氏から展望台に着いたと携帯に電話がかかってきた。

 彼はカフェの入り口近くに立っていた。


 白っぽいサマージャケットとジーンズ姿は、遠くから見ても他の人たちとは人種が異なるような風貌だった。


 カフェはウイークデーのこの時間、あまり客はいなかった。

 私はバーボンウイスキーの水割りを、井上氏はビールを注文した。


「ではこれを」


 そう言って彼は封筒を差し出した。


 離婚届には彼のサインと押印、そして証人の欄のひとつには見知らぬ男性のサインと押印があった。

 私はそれを封筒に戻して鞄に仕舞った。


「突然の無礼な連絡でしたのに、このように気分を害さずに丁寧に応対してくださってありがとうございました」


 私は頭を下げた。


「あんたも妙な人だな。まあ、今となってはあんたとあいつとのことは私に関係のないことなのでしょうがね」


 井上氏は自嘲気味な笑いを含んで言った。


 他人の離婚話に首を突っ込んで、こんなふうに頭を下げている自分が不思議だった。


「荷物は少し運びたいと彼女が言っています。鍵は持っているらしいのですが、井上様のお留守の間に運び出してもよろしいでしょうか?」


 井上氏にとってはある事情がなければ屈辱的なことだ。


 妻に出て行かれて、妻と知り合った見知らぬ男から離婚届に判を押せと言われ、さらに家に残った妻の荷物を自分の留守の間に運び出したいと言われているのだから。

 

 もちろんある事情が存在するから彼も同意しているわけなのだ。

 ある事情とは井上氏がカノンに与えた仕打ちに他ならない。


「それはかまわない。遠慮は要らないと言ってくれないかな。私のスケジュールを確認して後日連絡してもいいが、そっちの希望を連絡してくれれば、その日時は部屋に居ないようにする」


 彼はビールを飲み干したあと、スコッチのロックを注文した。


「ただ、小野さん、あんたにひと言だけ話しておく。そしてその内容は絶対に他言無用だ」


 井上氏は鋭い目つきに変わって言った。


 まるで私を射すくめるような目つきになった。


「どういう話なんでしょう」


「大きな声では言えないのだが、カノンと私との間に生まれた赤ん坊は可哀相だった。彼女から何も聞かされていないかな?」


「いえ」


「そうだよな、赤ん坊の詳しいことを、あいつがあんたに言うはずないよな」


「何なんです?」


「つまり、俺たちの赤ん坊は知的障害や他の先天性疾患をもって生まれてきたわけなんだ。

 染色体の異常から発生する障害だから治療法はない。高齢になればなるほどダウン症の赤ん坊が産まれる可能性が高くなるのはご存知ないかな?」


「詳しくは知りません」


「カノンは三十四歳で出産したので、極めて高齢出産とはいえない。でも二十代の女性に比べるとダウン症の発症率は三倍にもなるんだ。不幸なことが起こってしまった」


「高熱が出てお亡くなりになったそうですね」


 私はカノンから赤ん坊の死亡原因を聞いていた。


「あいつはあんたにそう言っていたんだね」


「違うんですか?」


「小野さん、あいつは赤ん坊を殺したんだよ。でも知っているのは俺だけなんだ。だからあんたには話をしておくが、絶対に誰にも言わないほうがいい」


 井上氏は声を潜めるようにして言った。


 私は彼が何を話そうとしているのかがすぐには分からなかった。


「夫婦の秘密でもよかったのだが、離婚することになったのだから、その代理人のあなたには言っておこう」


「どういうことです?」


「俺がコンサートツアーに出ている間に、あいつは娘を・・・赤ん坊は女の子だったんだよ、可哀相に、ダウン症だった。

 その娘が、確かに風邪を引いたのかもしれない。でもね、あいつは娘をベランダに放り出してじっと見ていたんだ。寒い冬の夜だよ、ひとたまりもない」


「彼女がそう言ったんですか?」


「何も言うわけがないよ。でもね、俺がツアーから帰ってきたら、赤ん坊の死体と並んで寝ていたんだ。

 俺も茫然自失だったが、あいつは気が変になっていたね。一応医者に連れて行って死亡診断書を書いてもらったのだが、医者も首をひねっていたね。

 おそらく分かっていたのだろう。でも今更どうにもならないことだから、医者は何も言おうとしなかったよ」


「それじゃ、彼女の意識的な行為だとなぜ言えるんです?」


「俺には分かるんだ、夫婦だからね。いや、夫婦だったのだから。赤ん坊が生まれてからあいつはショックで何も出来なかった。『赤ちゃんが可哀相。私が何をしたって言うの』って、毎日泣いてばかりいたよ。あいつが殺したんだ。間違いない」


 井上氏は断言してウイスキーをあおった。


 私は彼の言い草に腹が立った。



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