第33話


    歌音(カノン)の竜巻



 翌週の月曜日の夜、仕事帰りにカノンの部屋を訪ねた。

 彼女は部屋で音楽を聴きながらくつろいでいた。


「何していたの?」


「ちょっと歌をね・・・何でもないの」


 そう言って彼女はCDプレーヤーのスイッチを切って、ガラステーブルの上に置かれていた何枚かの譜面のようなものを大きなファイルに仕舞った。


 夫がベーシストなのだからカノンが音楽を聴いていても不思議ではないのだが、こころに引っかかる何かがあった。

 でもその感覚が何なのかは分からなかった。


「一昨日、約束どおりご主人と会ったよ」


 私はソファーに腰をかけた。閉め切った部屋はエアコンがよく効いていた。


「どうだった?」


「離婚届の用紙を預けてきたよ。明日、同じ場所でもう一度会うことになったんだ」


「大声をあげたり、殴りかかったりしてこなかった?」


「そんなことあるわけないだろ。周りに人がたくさんいるんだよ。それにご主人は穏やかな人だったよ。ちょっと気になることを言っていたけどね」


「どんなこと?」


「ちょっと外に出ないか?ビールを飲みたいんだ」


 カノンは同意した。


 私たちはマンションを出て公園を横切り、新橋駅方向に少し歩いたところにある小さなビアレストランへ入った。


 店内は仕事帰りのサラリーマンやOLでほぼ満席に近かったが、私とカノンは奥のほうのふたり掛けテーブル席に案内された。


「明日、書類にサインと印鑑をもらうから心配ない。証人の欄に二名必要だけど、ひとつは井上氏の方で誰かの署名と判をもらってくれているはずなんだ。もうひとつは俺がなるけどかまわないかな?」


「あなたに証人になって欲しいわ」


 冷たい地ビールを飲みながら、私は先日の会話の大部分を伝えた。

 カノンはフンフンと頷いていた。


「本当にありがとう。嬉しい」


 カノンは目を潤ませて今にも泣きそうな表情になった。


「泣くなって。泣かないようにと思って、外で話をしようとしたんじゃないか。喜んでくれないと困る」


「嬉しいわ、もちろん喜んでいるわよ。何から何まであなたに・・・ありがとう」


 今夜は彼女とビールを飲みたかった。


 まだ離婚届を手にしたわけではないが、おそらく井上氏は離婚届を持って来るだろう。

 結論の出なかった夫婦関係は終わりに向かう。


 ついこの前知り合ったばかりのカノンだが、私は離婚代理人の役割を私は果たすことになる。


 彼女はもしかして私があの公園に現れるのを待っていたのかも知れない。


 夫からようやく逃れ、次に離婚手続きの代理人となってくれる人物との遭遇を、彼女はあの公園でポケット瓶を手に待っていたのだ。


 そして私はその惚れ惚れとする所作にこころが銅鑼の鐘のように鳴り響き、引き込まれていった。


 説明の仕様もなく私とカノンは突発的に繋がり、そして彼女が襲われているあらゆる苦悩から解き放とうとしている。

 すべての事象は偶然などではなく必然なのだ。


 そんなことを思いながら、二杯目はグラスに綺麗に注がれたスパイシービールを飲んだ。


「それで、彼が気になることを言っていたって?」


「うん、君を一生許さないって言うんだ。彼の言葉にこころあたりがあるかな?」


 カノンはしばらく考えてから「分からない」と言った。


「まあいいさ。明日書類をもらってそれを君が区役所へ提出すれば成立だ。でも君の荷物をどうするんだろうって彼が言っていたよ。運ぶものがあるのならレンタカーで俺が運ぶよ。運送屋に頼むとそこから居場所のアシが出る可能性があるからね」


「そうね」


 結局、あれこれ運んでも、今のウイークリーマンションに置く場所がないので荷物はほとんどそのままにすることになった。


「季節の衣類やちょっとした大切な小物などは運びたいから、あなたに手伝ってもらってかまわないかしら」


「問題ない」


 私たちは午後九時を過ぎてから店を出た。


 最初に出会った公園が見えた。二ヶ月ほど前の金曜日の夜、私は無意識にこの公園に足を踏み入れたのだ。


 そこにはホットピンクのポロシャツの女がウイスキーのポケット瓶をあおり、夏の夜空を仰ぎ見ていた。


 その素敵な光景にこころが瞬時にときめいたのが、もう何ヶ月も前のような気がした。


 カノンは竜巻のように突然現れて、今私は彼女の渦の真っ只中にいるのだ。

 そしてもうすぐその竜巻は通り過ぎてしまうのだろうだろうか。

 いや、竜巻から私が抜け出ることになるのだ。


 私とカノンは公園に入り、鉄棒に腰を凭れかせて星空を仰ぎ見た。

 月はほんの欠片程度しかその姿を見せていなかった。

 まるで夜の帳から身を隠しているような今夜の月の姿だった。


 カノンは夫のもとから姿を隠して二ヶ月あまり、今夜の月のような暮らしを強いられた。

 夫と正式に別れて堂々と生きていけるようになるのだろうかと、私は星空を眺めているカノンの横顔を見ながら思った。




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