第32話
沙織と詩織
ゲストハウスに戻ると沙織と詩織がリビングにいて、ふたりで大型冷蔵庫を整理していた。
「どうしたの?」
「ああ、お帰りなさい。綾ちゃんのものを整理しているの。でもほとんど捨てないといけないのよ」
沙織が言った。
綾香は結局二週間経っても帰って来なかった。
沙織がゲストハウスの管理会社に確認したが特に何も連絡はないとのことだったらしい。
「二週間くらいは普通に留守にするんじゃないかな」
私は無責任なことを言った。
「そんなことないよ。お味噌汁をお鍋にたくさん作って冷蔵庫に入れていたんだから、留守にする予定なんかなかったはずだよ。何かあったんだよ、きっと」
「そうね、帰って来られない何かが綾ちゃんの身に起こったか、実家に急に帰らないといけない連絡があったか、どちらかではないですか?」
沙織と詩織が交互に言った。
確かに何かが起こったに違いなかった。でもその「何か」は若い女性なら様々考えられる。
われわれ他人が心配したって始まらない。
「渋谷か池袋あたりで良い男にでも拾われたんじゃないか?」
私は部屋に鞄を置き、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「酷いことを言うね、小野さんって」
「信じられない言葉です」
再びふたりが交互に私の言葉を非難した。
私は「ごめん」と一応謝ったものの、本当にどこかで良い男にでも声をかけられてついて行ってしまったのではないかと思った。
綾香にはそういう危なっかしい雰囲気があった。
それから私たちは散歩に出た。
詩織が夕涼みに多摩川の畔を散歩しようと言い出したからだった。
休日には普段あまり部屋から出ない沙織が意外に「行こう行こう」と同意した。
私は自分よりずっと若い女性ふたりに挟まれて、多摩川の土手から降りて河川敷の遊歩道を歩いた。
土曜日の河川敷は幸せな人々で溢れていた。
離婚問題で悩んでいる人や、夫や家族の暴力から逃げて姿を隠している人たちなんてそこには存在しなかった。
突然ゲストハウスに戻らなくなる女の子もいなかった。
幸せな日常が繰り返されるのを当然のように思っている笑顔の人たちばかりが河川敷にいた。
今の幸せな状態がもしかすれば脆弱なものかもしれないと、緊張感とともに噛み締めるように生きている人々の姿はなかった。
皆がリラックスした幸せな表情だった。
東急線の鉄橋のガード下では、何組かの若者たちが歓声を上げながらバーベキューを楽しんでいた。
河川敷のゴルフコースは本日の予定をほぼ終了したゴルファーたちが、パーティーが終わったあとの満足感を顔に表しながら帰り支度を始めていた。
遊歩道をジョギングする男女がときどきわれわれを追い越した。
真夏の夕方の多摩川の河川敷には、私や沙織や詩織とは違った人たちばかりだった。
どこまでも幸せな人々で溢れていた。
「いつまでもゲストハウスに住んでいるわけにはいかないな」
私は河川敷の人々を眺めながらポツンと言った。
「そうだね」と沙織が言った。沙織が同意したことは意外だった。
「ゲストハウスに住んでいて何が悪いの?」と反論を期待していたのに、いったいどうしたのだ。
香織が熊の医者と交際をすることになったことや、突然綾香が帰ってこなくなったことが、彼女のこころに何か変化を与えたのかも知れないと私は思った。
みんな早くここを出て、幸せに向かって突き進むべきなのだ。
「今夜久しぶりに焼肉パーティしようか?」
珍しく沙織が提案した。この日の沙織は意外な言葉の連続だった。
「いいですね」と詩織も同意した。
ゲストハウスに入居して五ヶ月、これまで私の歓迎を兼ねて三月に鍋パーティーがあり、そのあと彼女たちが関西人の私にお好み焼きをリクエストして、鉄板焼パーティーをしたことがあったが、それ以来のことだった。
「じゃあ、駅前のスーパーで買い物して帰ろうか」
私たちは河川敷から土手に上がった。
ちょうど武蔵小杉駅の高層マンションの向こう側に鮮やかなオレンジ色の夕陽が沈みかけていた。
とても綺麗な夕陽だった。
大阪の律子も同じ夕陽を眺めているのだろうか?
私はすぐに電話で確かめたくなった。
「ちょっと待って」
私はふたりに土手の下で待ってくれるように言った。
それから律子の携帯へ電話をかけた。彼女は待っていたかのようにすぐに出た。
「律ちゃん、今何しているの?」
「駅前のスーパーに晩御飯の材料を買いに行って、その帰りだよ。お母さんと一緒だけど、浩一はどこなの?」
「夕陽が綺麗だろ」
「えっ?」
「律ちゃんも夕陽を眺めていないかなって思ったから電話したんだ。もう少ししたら大阪に帰るからね」
「うん、早く帰ってきて。こっちは御幣島の工場の煙突の向こうの方に夕陽が見えるよ。綺麗だね」
「ねえ、律ちゃん」
「なあに?」
「人って綺麗な朝陽や夕陽を見て、どうして感動するんだろうね?」
「ええっ?浩一が分からないことは、私にだって分からないよ」
「それもそうだな。律ちゃん、愛してるよ。本当に悪かったって思っているんだ」
「どうしたのよ、変な人。じゃあね、お母さんがいるから切るね」
電話はプツンと音を立てて切れた。
その音は私がこころに抱き続けていた蟠りを断ち切るかのような音に思えた。
それから私は土手を降りて沙織と詩織に挟まれながら線路沿いを駅前の方向へ歩いた。
ふたりはさっきの電話の相手について何も訊いてはこなかった。
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