第31話
歌音(カノン)の夫
井上氏と会う場所として都庁の北展望台を選んだ理由は特になかった。
カノンと東京タワーや六本木ヒルズを訪れ、さらに愛宕山のMタワービルの高層階のバーで飲んだ経緯から、私のこころが自然と高い場所を求めたとしか言い様がなかった。
土曜日の昼下がりの都庁の展望台は、アジア人の団体観光客で意外にも混み合っていた。
パノラマから見える東京の街並みや遠く臨海方面の景色は美しく、こんな素晴らしい眺望の場所で、これから他人夫婦の離婚の交渉などを始めようとする自分が嫌らしい人間に思えてくるのだった。
「あなたは誰なんです?この前は理由も言わずにいきなり会いたいとは、ちょっと失礼じゃないかな。妻があなたの元にいるのなら会わせてくれないか」
カノンの夫、井上正孝は私と会うなりそう言った。
「井上さん、私はカノンさんと一緒にいるわけじゃありません。ふとしたことで知り合っただけなんです。私はもうすぐ大阪に戻ります。私の生活は大阪にあるんです」
展望台にある円形のカフェは八分程度の混み具合だったが、テーブル間が広くとられているので大声で話さない限り会話は他の席へは聞こえない。
こういう場所で彼が興奮して声を荒げないという保証はないが、私は彼の姿を一瞥してそのような人間ではなさそうな印象を持った。
首が隠れるほどの長髪で、口髭と顎鬚を蓄えた風貌はまさに音楽家の雰囲気を漂わせていた。
細い銀フレームのメガネの奥の目は戦闘的な視線ではなかった。
「あなたは妻とどういう関係なんです?」
「私は仕事帰りに偶然カノンさんと遭遇したのです。そして何度かお会いしているうちに彼女が今置かれている事情を知りました。彼女はその事情から逃げ出したのですよ、井上さん」
私はカノンと知り合ってまだひと月半ほどだということと、彼女から相談を持ちかけられたことなどをかいつまんで説明した。
彼女が抱えている事情はあなた方夫婦の問題であり、あなたはそれをよくご存知のはずではないかと私は話をした。
「そういうお気持ちなので、彼女は井上さんと離婚を切望されています。離婚届もこの鞄の中に入っています」
私はカノンから打ち明けられた井上氏の性癖や、彼女の自由を半ば束縛してきた彼の仕打ちなどについては一切に触れずに言った。
「あいつはどこにいるんです?」
「それは申し上げられない。私の職場の近くですが、彼女はあなたから逃れて、ある場所へたどり着いたと言っている以上、居場所を教えるわけにはいきません」
「小野さんとやら。あなたに何の権利があって、私とカノンとの間に土足で踏み込んで来たのだね?関係ないでしょうが」
「関係はあります。彼女が私に委任されたからです。委任状をお見せしましょうか?」
「小野さん、あなたは勘違いをしている。あいつの言い分ばかりを聞いているのだから分からないだろうがね。あなたはあいつのことをどれくらい知っているのです?
まあ、あいつのことや私たちの夫婦関係についてお話しする気はありませんがね」
「でも彼女はずっと離婚を望んでいた。それをあなたは拒否され続けた」
「それはそうかも知れないが、どうもイマイチ納得がいかないな」
井上氏はコーヒーを啜り、苦笑いをしながら言った。
「私はカノンさんと知り合ったばかりですから、何も知りません。ただ、離婚をしたいが夫が応じてくれないと彼女に打ち明けられ、その事情について話をされたから私が相談に乗っただけなんです」
「まあ、そこまで言うのなら離婚はかまわないさ。もう私たちは終わっているようなものなんだから。でも私はあいつを一生許さない」
最初はカノンのことを妻と呼んでいた井上氏は、途中から「あいつ」と呼び方が変わり、憎しみをこめた表情になった。
「一生許さないとはどういうことなんです?」
「それは・・・あいつに訊いてみればいいさ。ともかく離婚届に同意が欲しいのなら、サインは出来ても印鑑を持っていないから後日になる。
本当はあんたのような見知らぬ人が突然間に入ってきて、まるで離婚調停人みたいな態度をとられて、私は実際腹が立っているんだ。私の気持ちが分かるか?」
井上氏は言葉や口調、態度などが一変して表情を厳しくして言った。
分かるか?と問われても、分かったとしても分からなかったとしても、ふたりの関係の破綻には意味のないことだと思った。
「でも、私はカノンさんしか知らない。彼女の要望で離婚のお願いをしているのです。感情論は理解しますが、異論がお有りなら彼女に伝えます。
ともかく後日もう一度お会いできますか?井上さんのご都合で日時を決めてください。離婚届をお渡ししておきますので、下の証人の欄のひとつにご身内かお知り合いの方のサインと印鑑をお願いします。もうひとつは私が証人となりますから」
私は鞄から離婚届の用紙を出して井上氏に手渡した。
届出人の妻の欄にはすでに井上歌音のサインと印鑑が押されていた。
彼はそれを見て少し眉をしかめた。
「荷物などはどうするつもりなのかな。要らなければ私のほうですべて処分すると伝えて欲しい」
井上氏はそう言って離婚届用紙を四つに丁寧に折りたたみ、封筒に戻して、それを水色のサマージャケットの内ポケットにしまった。
「彼女に確認しておきます」
私と井上氏は三日後の夜八時に再びここで会う約束をして別れた。
トラブルにも口論にもならず、拍子抜けしてしまう離婚代理人としての交渉だった。
私は井上氏の「一生許さない」という言葉の背景はいったい何なのだろうと考えながら帰路についたが、電車の中でいくら考えても、許されない対象が何であるのか皆目見当がつかなかった。
「あなたはあいつのことを何も知らない」と彼は言っていた。
でもそれは当たり前じゃないかと思った。
粗末で寂しい公園で、惚れ惚れする姿でウイスキーのポケット瓶をあおっていたカノンと遭遇したのは、わずか一ヶ月半ほど前のことなのだから。
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