第30話
懺悔の苦悩 二
不安そうな表情の彼女も、とても魅力的だった。
彼女の自宅電話は八回ほどのコールのあと留守番テープに変わった。私は伝言を残さずに切った。
「留守みたいだな。じゃあ、携帯にかけてみるよ」
カノンは黙って頷いた。
番号を押す私の指先を神妙な目でじっと見ていた。
彼女の緊張した目つきを見て、私はまるで時限爆弾のセットをしているかのような感覚になった。
そして彼女の夫はスリーコール目で出た。
「はい、井上です」と夫は静かな声で言った。
「私は小野と申します。突然の電話をお許しください」
「どちらの小野さん?」
夫は怪訝そうな声色で訊いてきた。声のトーンは意外にも高かった。
「実はカノン様のことで一度お会いしたいのです」
私はゆっくりとストレートに言った。夫は数秒黙っていた。
「あんたは誰?」
「カノン様のことですぐにでもお会い出来ませんでしょうか?」
「カノンはあんたと一緒にいるのか。どこにいるんだ?」
「それは、申し上げられません。ともかく会えませんか、すぐに」
再び数秒の沈黙。そして夫は言った。
「どこで、いつ?」
私は新宿の都庁の北展望台を提案し、今週の土曜日の午後一時はどうかと訊いた。
夫は「それでいい。小野さんだな」と言って電話を向こうから切った。
私はカノンの夫と七月最後の土曜日に会うことになった。
電話を置いてカノンを見ると、大きな瞳が潤んでいた。
「どうしてそこまでしてくれるの?あなたおかしいわ。本当におかしな人。ねえ、どうしてなの?」
「離婚届の用紙は用意しているのか?あと、君の自筆の委任状が欲しい」
私は彼女の質問には答えず言った。
「委任状?なぜなの」
「離婚届だけなら、君のダンナは信じないかもしれないだろ」
カノンはしばらく考えてから「いいわよ、書くわ」と言った。
私はワインの酔いもあったが、動くのが面倒になったので今夜泊めて欲しいと彼女に訴えた。
「遠慮なんて要らないのに、あなたって本当におかしな人ね」
「あまり俺のことをおかしいおかしいって何度も言うなよ。本当におかしな男と思ってしまうじゃないか」
「だってそうなんだから」
私はカノンとの竜巻のような関係に戸惑いながらも、この日の夜も身体を重ねた。
まるで彼女の離婚への前祝いをするかのようなつながりだった。
手のひらに入ってしまう彼女の小さな胸のふくらみの感覚を、もう私は何年も前から知っているような錯覚に陥った。
だが心地よい疲れの中、死んでしまった元妻や大阪で私を待ち続けている律子の悲しげな表情が脳裏に浮かんだ。
待てよ、俺はいったい何をしているのだ?と。
次の土曜日の昼、カノンの夫と会おうとしている私を、自分自身でも信じられなかった。
私は妻との結婚生活を送りながらも他にも女性がいた。
離婚は女性関係が直接の原因ではないが、金融業に携わることによって一変してしまった私の性格と生活態度に妻が愛想を尽かしたことは間違いなかった。
にもかかわらず、私はそのときの痛手を忘れてしまったかのように、律子という恋人がいながら、離れて暮らすわずか数ヶ月の間にひとりの女性と竜巻のような関係に陥っている。
私は自分自身のあまりの不誠実さに愕然としてしまった。
元妻が自殺したショックと、彼女への懺悔と自分自身への制裁のために大阪を離れたのではなかったのか。
律子のような若い純粋な女性にとっては到底理解できない理由を並べ立てて、半ば強引に我侭を通して東京へ出てきたのではなかったのか。
それが何だ、このザマは。
私はカノンの横でもがき苦しんだ。神が不誠実な行為の数々に与え賜うた当然の懺悔の苦悩だった。
「どうしたの?」
「いや、どうもしない」
「あなた、泣いてるじゃない。いったいどうしたのよ?」
「俺は・・・どうしようもないクズなんだ。俺は神に裁かれないといけない人間なのに」
自分の不誠実や不甲斐なさを責めると、これまでの後悔した多くの出来事がこころに次々とよみがえり、さらに私を苦しめた。
こころの奥から清水のように湧き出る涙を止められず、まるで幼児が親に叱られたときのように声をあげて泣いた。
涙の粒がカノンの小さな胸のふくらみに落ちて流れた。
「泣かないで。あなたはクズなんかじゃないわ。私こそ生きていく価値のない女なのよ。私のほうが神様に罰せられるべき人間なの。だからもう泣かないで」
カノンはそう言って私の身体を引き寄せ、同じように身体を震わせて泣いた。
私とカノンはきつく抱き合ったまましばらく泣いた。
ふたりの身体の隙間にたくさんの涙が流れた。
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