第28話


        沙織


 大阪から戻った翌日は海の日と名づけられた祝日だった。


 私は体調が優れず、一日中ゲストハウスで寝ていた。


 一瞬の含み笑いのような日帰りの大阪、律子との慌しい愛の再確認、そして詩織の未来への明かりを灯すための手続き等で私はずいぶんと疲れていた。


 夕方になってようやくベッドから身体を引きずり下ろし、リビングに出てみると祝日なのに珍しく沙織がいた。


「沙織ちゃん、今から仕事なの?」


「違うの、今日はお休みをもらったの」


「そうなんだ」


 沙織はキッチンの流しで手鍋をゴシゴシと洗っていた。


「彩ちゃん、ずっと帰って来ないのよ」


「えっ?」


「この小さな鍋にお味噌汁を作って冷蔵庫に入れたままで、もう十日以上経つんだよ。冷蔵庫を開けるとすごい臭いがしてきて吐きそうになるの。仕方がないから全部捨てたんだよ。小野さん気づかなかった?」


「俺、冷蔵庫は滅多に開けないから」


「そうよね、もう彩ちゃんったら、最低だわ」


 沙織はかなり怒った表情で鍋を念入りにこすりながら言った。


「他にもね、卵十個入りパックが半分ほど残っているし、ハムと明太子、それから納豆のパックとヨーグルト、ぜーんぶ消費期限切れ。頭にきちゃう」


「彩ちゃん、どうしたのかな。もしかして旅行かも知れないし、急に田舎に何かあって帰ったのかもね」


「ともかく、今週様子を見て帰ってこなかったら冷蔵庫にある彩ちゃんのものは全部捨てる。他のものまで悪くなってしまうわ。本当にあの子、何考えているんだろ」


 沙織は宣言するような口調で憤慨した。


 私は熱いインスタントコーヒーを淹れてリビングの椅子に座った。


 香織は仕事に出ているようだったが、詩織は部屋にいるのかどうか分からなかった。


「それより香織さん、この前言っていた熊のようなお医者さんとどうなったの?」


 沙織はようやく洗い終えた鍋を水切りかごに置いてリビングの椅子に座り、「フー」と小さくため息をついた。


 私は食器棚から彼女のマグカップを取り出してコーヒーを淹れてやった。


「ありがとう。ちょっと疲れた」


 沙織はマグカップを両手で持ち、フーと冷ましながらひと口啜った。


 沙織も正面からよく見ると可愛い顔をしていた。

 

 悪戯好きな少年のようなあどけなさが残っている卵形の顔はオカッパ頭で覆われているが、髪型に気を遣ったり、もう少し化粧をするだけで見違えるくらい綺麗になるのじゃないかと思った。


「どうしたの、私の顔をじっと見て」


「いや、沙織ちゃんって、よく見ると可愛い顔をしているね」


「よく見ないと可愛くないの?」


 フンという感じで沙織は言った。


 彼女が夫から何度もDVを受けて逃げ出したとは思えなかった。

 彼女のどこを夫は気に入らなかったのだろう。


 ひと仕事を終えてホッとしたようにコーヒーを飲んでいる目の前の沙織を見ながら、私は不思議に思った。


「香織さんはこの前言っていた熊のお医者さんと付き合うんだって。先週だったかな、熊さんのお母さんと三人で食事をして、その何日かあとにふたりだけでデートしたみたいだよ」


「そうなんだ。それは良かったね」


 沙織はそのあとも黙ってコーヒーを飲んでいた。

 

 ゲストハウスで同じ屋根の下に暮らしていたって、おそらく沙織は寂しいに違いないのだ。


 誰か彼女を守ってくれる男性が現れればいいのだが、生きるということや恋をするということは、そんな単純なものではないから始末が悪い。


 キッチンの窓の向こうに沈みゆくオレンジ色の夕陽が、沈黙が流れるリビングのテーブルを照らした。


 カノンの夫と会って、彼女が抱える問題を片付けることが出来たら、そろそろ大阪に戻ろう。


 そして私の帰りを待ち続けている律子の寂しさを取り除いてやろう。

 寂しそうな表情でコーヒーを飲んでいる目の前の沙織を見て、私はそう思った。

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