第26話


   再び歌音(カノン) 三



 夫の苛めのような性癖から逃げている女性と、高層ビルの上階にある高級バーで、いかにして離婚届にサインを得るかを打ち合わせるなんて、世界中で私とカノンだけだろう。


 遠い将来、今夜のことがとても素敵な思い出となって、苦笑いしながら懐かしむことが出来るだろうか?


 高い場所で飲んでいると、酔いが回るのも早かった。


 目の前の東京タワーの特別展望台の上の塔の部分がゆらゆらとゆれていた。

 でも揺れているのは私のほうだと分かるのにそんなに時間は要しなかった。


「明日は休もうかな。どうせ長く勤めるわけじゃないからな」


 午前零時が近くなっても私たちは様々なことを語り合いながら飲んだ。

 カノンの家は大田区の大岡山という駅から十数分のところにあると言った。


「周りは平均的な住宅街ね。私たちに子供がいなかったから近所づきあいといっても回覧板くらいで、親しい人は誰もいなかったわ。挨拶を交わす程度よ」


 夫と事前に連絡を取るのか、いきなり訪問するのかを議論したが、カノンは「分からない」と言って難しい顔をした。


 家の中の様子などを聞くと彼女はさらに苦しそうな表情になった。

 辛く苦しかった生活がこころに蘇ってきたのだろう。

 私はそれ以上のことを訊くのをためらった。


「まあいいや、俺が考えるよ。ともかく住所とご主人の携帯番号を聞いておこう。

 それからどういう展開になるか分からないけど、離婚に応じたとして、家に残している君の持ち物なんかはどうするの?」


「それは・・・彼とキチンと話がついたら、彼のいない間に必要なものだけ持ち出すことにするわ。

 でも大切なものなんてほとんどないのよ。少しの洋服とアクセサリーと昔の写真がたくさんはいったアルバム程度のものね」


「持ち出すときは俺も手伝う」


「本当にいろいろとありがとう」


 私たちはバーを出た。


 深夜一時半を過ぎていた。ふたりともすっかり酔っ払っていた。


 ビルを出て御成門駅方向へ歩く途中で芝公園に入った。


 深夜の芝公園のベンチには何組かのカップルが抱き合っていた。

 私たちもベンチに座った。こんな時間でも茹るような暑さだった。


 この年は雨がほとんど降らず、梅雨の季節がやって来たのかどうかさえも分からなかった。

 そして私とカノンの関係は、知り合ってわずか一ヶ月あまりだが、どういう種類のものなのか、皆目見当がつかなかった。


「平日のこんな真夜中にカップルがいるんだな。どんな奴らなんだ?」


「私たちだって同じでしょ。世の中には様々な人が生きているんだから」


 私はカノンを抱き寄せた。


「私、あなたのこと好きになってしまったらどうしよう」


「好きじゃないってことなのか?」


「じゃあ、あなたはどうなの?」


「俺は興奮するくらい好きだよ」


 カノンは私の言葉に「馬鹿みたい」と言ってベンチから腰を上げた。


 翌日は仕事を休んで一日中カノンとダラダラと過ごした。

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