第25話
再び歌音(カノン) 二
それから私たちは外に出た。時刻はまだ午後九時を過ぎたばかりだった。
カノンはまださっきの怒りが静まっていない様子だった。
私が右手を差し出しても強く払いのけた。
国道を越えて緩やかな坂道を上がって行った。
仕事を終えたサラリーマンやOLが疲れた表情で帰宅を急いでいた。
私たちは愛宕山にあるMタワーに入った。
「どこに行くの?」
「仲直りに料金も場所も高い場所で飲もう。お詫びに俺が奢るよ」
「来たことがあるの?ここはオフィスビルだよ」
「いや、四十階くらいのところに洒落たバーがあるはずなんだ。街金時代に東京の業者と会う機会があって、このビルがオープン当初に来たことがある。一年以上前のことだけどね」
「そうなんだ。あなたもしかして元ヤクザ?」
「馬鹿なことを言うなよ。こんなお人よしみたいな顔をしたヤクザなんていないだろ」
エレベータには私たち以外に誰も乗っていなかった。
ドアが閉まるとカノンを抱き寄せた。
「もう仲直りは済んだじゃない。こんな高級なバーにいかなくてもいいよ」
唇を離すとカノンは言った。
「俺は週末に大阪へ向かうから、今夜は君とゆっくり飲みたいんだ」
「ありがとう、私のためにいろいろと嬉しいわ。でも今夜は私が奢るから、あなたはお金の心配なんかしないで」
「女性に奢られるようなヤクザはいないだろ」
「いいじゃない、特別なヤクザがいたって」
カノンの機嫌がようやく直った。
私たちはエレベータで四十二階にあるバーに入った。
バーは高層階に位置するだけあって、広い窓からは素晴らしい夜景が見えた。
私たちは窓際の四人がけソファーに案内された。
夕食がまだだったので、本日のピッツァとハムとサラミの盛り合わせ、そしてハイネケンビールを注文した。
何から何までが素敵なバーだったが、料理やドリンク類の料金も経営者にとって素敵に設定されていた。
窓からは東京タワーの遥か向こうに東京湾やレインボーブリッジが見えた。
「すごい景色ね。うっとりしてしまう」
カノンは夜景にため息を吐いて言った。
ジーンズに包まれた細い足を組み替える仕草がとても洒落ていた。
私はスーツを着ていたが、カノンはいつものホットピンクのポロシャツとジーンズ姿だった。
でもこういう高級バーに全く違和感のない洗練された雰囲気を彼女は放っていた。
むしろ彼女の動きがバーの雰囲気を引っ張っていると言ってもよく、スーツ姿の年配のサラリーマンや外人のグループなどもカノンの姿をときどきチラっと見ていた。
私は彼女の魅力の五十パーセントもまだ分かっていないようだった。
ピッツァの味は絶品だった。カノンはビールのあとギムレットというカクテルを注文し、私はビールを飲み続けた。
午後十時を過ぎるとライブが始まった。
心地良いジャズピアノのメロディがフロアに流れた。
そのとき携帯電話のマナーモードが振動した。
上着のポケットから取り出すと律子からだった。
七月になってメールは一度届いていたが、初めての電話だった。
私は躊躇しながらも出た。
「はい、どうしたの?」
「どうしたのって、どういうこと?」
「いや、こんなに遅くに驚いているんだ」
「遅いって、まだ十時半だよ。どこにいるの?」
「どこって、そうだな、高い場所だ」
「高い場所って・・・どこなの?」
「東京タワーの近くの何ていうビルだったかな・・・ともかくそこの高層階にあるバーにいるんだ」
「誰かと一緒?」
「うん」
「誰?」
「もちろん律子の知らない人だよ」
「女の人?」
「そうだな、女性だ」
「浩一、浮気なんかしたら殺すよ」
「分かってるって。相談に乗っているだけだよ」
「相談って?」
「いろいろとね、仕事のことだよ。それより律ちゃん、今週の土曜日、ちょっとした用事があって大阪に帰る。少しだけでも会えたら嬉しいけど」
「何泊するの?」
「日帰りなんだ」
「なんだ、その日に帰ってしまうの。つまんない」
「律ちゃん、もうすぐ本当に帰るからな。長く勝手して悪かったと思っているよ」
「いいよ、ちゃんと理解しているから。だから律子を裏切ったらただじゃおかないから、ちゃんと約束どおり帰ってきて」
「もちろんだ」
私は律子の言葉に胸が締めつけられそうになった。
いつの間にかおとなになっていた律子。
「じゃあ、おやすみ。愛しているって言って、浩一」
「愛しているよ」
私は電話を手で覆いながら小さな声で囁いた。「私も」と言って律子は電話を切った。
顔を上げると、窓の外を眺めるカノンの目が潤んでいた。
「どうしたんだ?」
「大阪の彼女ね」
「そうなんだ。長い電話ですまない」
「あなた、幸せね」
「どうかな」
「いいのよ、気にしないで。羨ましいくらい仲がよさそうじゃないの。私のことなんかに首を突っ込まないで早く大阪に帰りなさい」
「何言ってるんだよ、さあ作戦会議をしよう。もう一杯飲もうか」
「本当に馬鹿ね、あなたって」
「馬鹿ばっかり言うなって」
私たちはそれから、彼女の夫からいかにして離婚届にサインをさせるかについて話し合った。
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