第24話



   再び歌音(カノン) 一


 

 数日後、私は仕事帰りにカノンの部屋を訪ねた。

 金曜日以外に部屋を訪ねたのは初めてだった。


 午後七時過ぎの公園に今夜はカノンの姿はなく、マンションの部屋のインターフォンを押すと、当然だが彼女が出た。


「悪かったかな?仕事帰りなんだ」


「どうして悪いの、他人行儀なのね」


 私は遠慮なく上がった。


 公園でカノンと会ってから部屋に入るのではなく、初めて直接部屋を訪ねたので、なんだかおかしな感じだった。


 彼女は特に何をしているわけではなかった。


 エアコンをかけずに、開け放たれたベランダから生ぬるい夏の風が部屋に飛び込んでいた。

 でも部屋は暑くはなく、ちょうどよい温度だった。


「毎日、寝てばかりだわ」


「いくらでも寝ればいいんじゃないか。眠って夢を見て、目が覚めれば新しい世界になっている。それに睡眠はこころと身体を蘇らせる効果があるよ」


「あなたって、そういう哲学的なことを真面目な顔をしてよく言うよね。気遣いは嬉しいけど」


「どこが哲学的なんだ?人類学的摂理だろ」


「意味が分かんない、人類学って」


 カノンは軽く首を左右に振りながら、呆れた表情で笑った。


 おそらく夫との暮らしでは、こころが安らぐような睡眠なんて長い間無縁だったのかも知れない。


 私は彼女の身体を引き寄せてキスをした。

 少し甘い口臭が鼻腔に漂った。


 唇を離すと、彼女は私の腕を解いて冷蔵庫からよく冷えたコーラを出してきた。


「今週の土日は大阪にちょっと帰らないといけない。昔付き合いがあった不動産屋と会うんだ」


「そうなんだ」


「だから、早く作戦会議をして、来週にでも君の夫に突撃しようと考えているんだ」


「突撃してくれるんだ、小野浩一さんが」


「そう、心配ない」


「無理しなくてもいいのよ。あなたを巻き込むのはこころ苦しいから」


「俺たち一体化しているんじゃないのか?」


「急激な一体化ね」


 カノンは含み笑いをした。


 知り合って一ヶ月しか経っていないが、私はカノンに対して特別な感情を持っていた。


 愛しているというのとは違うが、彼女への気持ちは戦友或いは同志に似たようなそんな感情だった。


 夫から逃げている彼女と、元妻の自殺によって夫婦生活を営んだ大阪に居たたまれなく、東京に逃げて来た私。


「逃げている」という共通点だけで、カノンに対して特別な親密感があった。


 でも難しくは考えずにカノンの夫から離婚届にサインをもらってきてやろうと思った。

 そうした結果、何がどう変わるのか、そんなことは分からない。


 分かっているのは、カノンと夫が離婚したとしても、私と彼女がどうなるわけではないということだった。


「離婚できたとしても、あなたはいずれ大阪に帰ってしまうのね。その先のことを考えなきゃ」


「ともかく自由になればいいんだ」


「そうね、ゆっくり考えるわ」


「正式に別れたら、もう首を絞められることも暴力を振るわれることもなくなるのだから、怯えることなく生きていける」


「でも暴力じゃないのよ、その・・・首を絞めるって行為はね。そうじゃないの」


「どういうことかな?」


「だからいわゆるDVとは違うの。夫は私を殴ったりするんじゃないのよ」


「それは分かっているよ」


「性癖なのよ」


「それは分かってるって。そんな話より、これから先のことを考えないとな」


 私は少し苛立った。


「私、もう子供が産めない身体になってしまったみたいだから、夫が私の首を絞めるのはそんな私に対しての彼の苛めなのよ」


「子供が産めなくても幸せになる方法はいくらでもあるだろうに」


「赤ちゃんが亡くなってから変わってしまったのよ」


「ダンナは君の首を絞めながら、君が苦しむ表情を見ながら興奮するんだろ?小説か雑誌か忘れたが、何かで読んだことがあるよ。変な性癖なんだ」


 私は苛立ちながら吐き捨てるように言った。


 こんな言い方はいけないことは分かっていた。

 だが私はカノンの夫への腹立たしさと同時に、同じ量の嫉妬心が生まれていた。


「酷いこと言うのね」


 そう言ってカノンは両手で顔を覆った。

 手のひらの隙間から嗚咽が聞こえた。


「悪かったよ、謝る」


「そんな言い方、大嫌いよ。酷いわ」


「本当に悪かった、許してくれ。俺はどうかしているんだ」


 私はカノンの背中を抱いた。


「俺は君の夫に嫉妬しているんだよ。俺の何百倍もの回数、君は夫とエッチしているんだからな」


「何言ってるの、馬鹿」


 カノンは私の言葉に涙を拭きながら言った。

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