第23話



       再び詩織

 


 翌日、ドアを何度もノックする音に目が覚めた。

 夢遊病者のようにベッドから出てドアを開けると詩織が立っていた。


「大丈夫ですか?すごいイビキがリビングまで聞こえていましたよ。昨日の話、覚えています?」


 詩織は昨夜と打って変わって遠慮がちに訊いてきた。


「ああ、覚えているよ。ちょっと待って、シャワーを浴びてから打ち合わせをしよう。三十分後ね」


 時刻はもう午前十時を過ぎていた。私は十時間近くも寝続けたのだ。


 途中一度も目が覚めることはなく、夢ひとつも見なかった。

 寝入ってから目が覚めるまでが五分くらいの感覚だった。


 わずか五分で貴重な人生の十時間が消え去ってしまった。

 でも上半身と下半身をつなぐネジの本数が五本くらい増えた気がした。


 リビングで詩織と打ち合わせをした。


 ゲストハウスには綾香だけがいた。


 彼女はこの時間、ちょうど睡眠の頂点にいるころなので余り大きな声では話せなかったが、私は大阪の知り合いに電話をかけた。


 昔、不動産担保融資の引き合いをよくまわしてやった人物だ。


 今は余り大きくはやっていないようだが、岡本商事の屋号でブローカー的な不動産業を営む傍ら、事情があって住民登録が出来ない人々の便宜を図るビジネスを数年前からはじめていた。


 顧客のほとんどは、過去に会社をつぶした人やサラ金やクレジット会社などの金融業者から逃げている人、そして詩織のように居場所を知られたくない特殊な事情のある人だった。


 岡本氏はすぐに電話に出た。


「おお、小野さんでっか、お久しぶりでんな。えっ、今東京へ出てはりまんのか?事務所を閉めはったんは風の便りで耳に入りましたけど、その後連絡がおまへんからどうしてはるのかと思うてましたんや」


 岡本氏が懐かしそうな声で言った。


 彼の声を聞くと、つい数ヶ月前まで街金業を営んでいたころの感覚が蘇ってきそうになった。


 岡本氏はすでに五十代後半の年齢で、今でこそたったひとりでほとんど表に出ない仕事を行っているが、バブル景気の時代には数百人の従業員を抱える大手不動産会社で常務取締役を務めた人物なのだ。


 バブル経済の崩壊とともに彼の会社も業績が一気に悪化し、更正法も適用されずに破産となった。


 彼は立場上の責任の範囲で残務処理に追われ、数ヶ月ぶりに会ったときには恰幅の良かった体躯がずいぶんと痩せて、すっかり変わり果てていたことに私は驚いたことがあった。


 バブル経済の終焉とともに大小数え切れないほどの不動産会社が消えた。


「銀行ですわ。奴らは酷いことをしまっせ。まあ今さら銀行がやってきたいろんな悪事を言うてもしかたがないから言いまへんけどな。酷いもんですわ」


 岡本氏と最後に会ったときに、銀行への憎しみを顔に表しながら悔しそうに語っていたことを思い出す。


 詩織の話はトントンと具体的に進み、翌週の土曜日に彼女を連れて大阪へ行くことになった。


 新大阪駅まで岡本氏が車で迎えに来てくれるからひとりでも大丈夫だよと説明したが、詩織は私についてきて欲しいと言って引かなかった。


 私は次の土曜日ほぼ五ヶ月ぶりに大阪に戻ることとなった。


「ごめんなさい。小野さんの新幹線の費用は私が出します。大阪なんて行ったことがないから不安なんです。大阪の人っていつも怒っているような気がするから」


「俺の交通費は心配しなくていいよ。でもね、大阪の人間がいつも怒っているわけがないよ。大阪弁が独特だからそう感じるだけなんだ」


「大阪弁って、テレビのお笑い番組や街頭インタビューなんかでも、私にはいつもふざけているようにしか思えません」


「それは違うんだけどね・・・」 


 私の生まれは愛媛県の今治市で、大阪には大学進学を機に出てきて二十年以上も住んでいたから、当初戸惑っていた大阪弁にすっかり慣れているが、他府県の人々からすればやはり当惑するのは理解できる。


 詩織の言葉にも苦笑いするしかなかった。


 私はまだ大阪には戻りたくなかった。


 わずか一日だけだとしても、まだ大阪の地に再度足を踏み戻したい気持ちにはなっていなかった。


 もう少し、あとわずかだけ東京でこころを整えたかったのだ。


 でも大阪に不安を感じている詩織にひとりで行けとは言えなかった。


 岡本氏への紹介もあるので、やむなく引き受けた。


 元妻への償いがこころの中ではまだまだ終わっていなかった。


 でも本当は、暑い夏が終わって秋風がこころ寂しくなってくる季節には律子のもとに戻らないといけないと考えていた。


 ひとりだけの秋は寂しく辛いのはこれまでの人生で何度も身に染みていたから、もう寂しい秋を迎えたくはなかった。

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