第22話
香織の話 三
「じゃあ、明日は仕事だから寝ますね。おやすみなさい」
そう言って香織は部屋に戻った。
いつの間にか午後十時半を過ぎていた。
テーブルの上には香織がもらって帰った銘酒がボトル三分の一程度残っていた。
沙織の白ワインも同じくらい残っていた。
沙織も日曜日はいつも仕事なので「じゃあ私も寝ます。おやすみなさい」と言って部屋に入ってしまった。
詩織は土日が休みなので部屋には戻ろうとせず、顔を赤くして酒を飲み続けていた。
「詩織ちゃん、普段飲まないんだろ?」
「でも飲めます」
詩織は宣言するような口調で言った。何かに苛立っている表情だった。
「どうしたの?今夜はちょっと機嫌が悪そうだけど」
「そうですか、別に」
詩織はいつものように右手の中指でメガネの縁を持ち上げながら言った。
明らかに不機嫌だったが、何が気に入らないのか私には分からなかった。
次の適切な言葉を探していたら数分間の沈黙がリビングに漂った。
香織や詩織の部屋からは物音ひとつ、咳払いさえも聞こえてこなかった。
詩織は日本酒のグラスを飲み干してからボトルに手を伸ばした。
「詩織ちゃん、女の子が酒瓶を持って自分でグラスに注ぐのはあまり褒めた格好じゃないな。もっと飲むなら俺がついでやるよ」
私は詩織の腕を持った。
「いいの、自分でするから。小野さんはずっと公園を見守っていればいいのよ」
「何言ってるんだよ、詩織ちゃん」
私は詩織の手をゆっくりとボトルから解き、キャップを外してグラスに少しだけ注いだ。
詩織は黙ってその様子を見ていたが、注ぎ終わるとすぐにグラスを口に持っていって一気に飲み干した。
コトリと小さな音を立ててグラスをテーブルに置いた詩織の目には、明らかに挑戦的な気持ちが映っていた。
「何よ、香織さん。元ダーのことで心配させておきながら、電話で簡単に断って、舌の根も乾かないうちにお客さんの息子さんとお見合いしただなんて、おかしいわ。
私、ルームメイトだから、香織さんが悩んでいたとき本気で彼女のことを心配していたのに・・・」
詩織は怪しい呂律で香織への不満を言った。
だが、生真面目な彼女は文句を言うときも気遣いを忘れず、香織の部屋には決して聞こえないように小さな声で呟くように言うのだった。
「詩織ちゃん、あまりいちいち真剣に考えないほうがいいよ。人のことよりも自分のことのほうが大切だ」
「じゃあ、小野さんは私のことをどうしてくれるんですか?」
「どうするって?」
「この前、夜中にお付き合いしてもらったとき、私の住所を大阪のお知り合いの関係の場所に登録できるって言っていたでしょ。忘れてしまったんですか?」
詩織は私の顔を斜め下から睨みつけるようにして言った。
そうだった。私は二週間前の金曜日の夜、詩織にそのような話をしたことを思い出した。
このところカノンのことばかり考えていたので、詩織のことをすっかり忘れていたのだ。
「ごめん、詩織ちゃん。君がそうしたいなら、俺はすぐに知り合いに連絡して手配を進めるよ。そうしたいんだね?」
「いいんです、私なんか。ずっとこんなところに住んで、ずっとアルバイトみたいな仕事をして、ずっと一人ぼっちで・・・」
言葉の途中で詩織は泣き出した。
静かに声を出さずに俯いて涙を流し始めた。私は最近女性の涙ばかり見ているような感覚になった。
「詩織ちゃん、泣くなよ。俺が急いで国民保険や年金の手続きが出来るようにしてやるよ。そしてもし診てもらいたいところがあるのなら病院へ行こう。心配するなよ」
「ごめんなさい。わたし、ちょっと情緒不安定だから」
「ゆっくり休まないといけないよ。ここは同じ屋根の下に香織さんも沙織も綾香も俺も一緒にいるんだから。何かあれば遠慮なくドアを叩けばいいんだ。
大阪への住民登録の件は明日の昼でも話し合おう。もうふたりとも寝ているだろうから、今夜はこれくらいにしておこう」
「分かりました。ありがとう、小野さん」
詩織はテーブルのグラスをキッチンの流しに置いてから部屋に入った。
私は一昨日の夜からの出来事をもう一度思い起こした。
カノンは今頃ベッドでひとり寂しい夜をじっと耐えているのかも知れない。
いや、疲れてとっくに眠っているだろうか。
どうか神様、彼女を深遠な眠りの中に引き込んで、夜が明けるまで決して目が覚めないように見守ってやってください。
私はそう祈った。
そして私自身は三秒もあれば一気に深い眠りに突入できそうなくらい疲労困憊していた。
テーブルの後片付けも出来ないまま部屋に戻り、ベッドに突っ伏すようにして寝た。
すぐに意識は消えた。
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