第21話
香織の話 二
「沙織ちゃん、あまり言わないで。どうなるか分からないのだから」
微笑む香織は他のふたりと違って、年齢的なこともあるだろうが、やはりおとなの雰囲気をもっていた。
きっと彼女は男性に人気があるだろうなと俺は思った。
「いいことって何があったのかな、香織さん」
「たいしたことじゃないの。前からね、お店に来るおばさんが、日本酒が好きだって私が言ったら新潟の有名なお酒をくれたり、旅行に行ったらお土産を買ってきてくれたりしていたのよ。
このお酒もそのおばさんからいただいたの。それでね、少し前にカットと毛染めに来てくれたときに、余計なおせっかい話を持って来てくれたのよ」
「余計なおせっかい話って?」
私は食器棚から小さなグラスを取り出し、その有名なお酒を少しだけもらった。
「息子さん、すごいイケメンなんだって」
左横から沙織が言った。
「沙織ちゃん、それは冗談だって言ってるでしょ。熊みたいな人なのよ」
香織が沙織を窘めた。そして話を続けた。
「そのおばさんがね、息子さんと会ってくれないかっていきなり言うのよ。今まで息子さんの話なんて一度もしたことがなかったのに。
今思えばそのおばさん、私のことをずっと観察していて、個人的なことも少しずつ訊き出していた感じがあったのよ」
「どんなことを訊かれたの?」
「そうね、最初は年齢を訊かれたり、独身かどうかとか、結婚したことはないのか、どこに住んでいるのかとかね」
「正直に答えたの?」
「もちろんよ。お得意様だから、差し障りのない範囲でね」
「興信所みたいなおばさんだな」
「そうかもね。でも悪い人じゃないみたいだから、結婚したけど子供をつくらないまま離婚して三年ほどになるって、正直に答えていたの。
少し前に来たときは、お付き合いしている男性はいらっしゃらないのって訊くのよ。何かおかしいなって思っていたんだけどね。
そしたら、金曜日に仕事が終わってから息子と会ってもらえないかっていきなり言われたの」
「金曜日って、昨日じゃないか」
「うん、昨日と今日は連休を取っていたから、その息子さんの仕事が終わったあと恵比寿のレストランで会ったの」
香織のお酒を飲むピッチが早くなった。
新潟の銘酒らしい酒瓶から小さなグラスに沙織が酒を注いだ。
詩織はなぜかずっと黙っていたが、突然「私にもお酒をください」と言い出した。
「息子さんは私より三歳年下なんだけど、都内の医科大学の勤務医さんらしいのね。ずっと仕事ばかりしてきたから女性と付き合ったことが一度もないんだって。信じられないけど、実際会ってみたら納得したわ」
「どういうこと?」
「熊みたいな人なんですって」
横から詩織が言った。
詩織は日本酒のグラスをグビッと一気飲みして「フー」と大きなため息を吐いた。
「そうなの。背が高くて太っていて髭面でお腹が出ていて、絶対に女にはモテないタイプ。間違いないわ」
「じゃあ、特に良い話でもないじゃないか」
「でもお金があるのよ。それにお医者様だし」
沙織が正直な感想を述べた。沙織はすっかり呂律が怪しくなっていた。
「すごく誠実そうなのよ。口数が少なくて恥ずかしそうに喋るの。女性は苦手なんだって」
香織が言った。
「でもその先生、内科と小児科の先生なんだよ。検診で女性のおっぱいを何千と見てきてるよ。お医者さんって変態が多いんだって」
沙織がまた無茶苦茶なことを言った。
「沙織ちゃん、変なこと言わないで。ともかく、息子さんもおばさんもふたりして言うものだから、まあお付き合いしてみることにしたの」
「そうだな、香織さんは浮気性のご主人で大変な思いをしたのだから、そういう朴訥とした性格で女性にモテそうにない人のほうがいいかも知れないね。良かったじゃないか」
「ありがとう、小野さん」
香織は久しぶりに嬉しそうな表情を見せた。
このゲストハウスに来て四ヶ月余り、香織が目尻の端を下げてこころから嬉しそうにしている顔を見たのは初めてのような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます