第20話
香織の話 一
芝公園からカノンのマンションへ戻り、私たちは自然につながった。
肌の浅黒い女性はセックスが強いと聞いたことがあるが、カノンはまさにそのとおりだった。
彼女の肌は黄銅色に輝いていた。
私たちは夕食もとらず三時間あまりもベッドにいた。
「こんなに急速に親しくなると、あなたすぐに飽きてしまうわね」
「飽きるなんて三年は有り得ないな」
「三年経ったら飽きるってことね」
私はベッドから出て、ふらつきながら帰り支度を始めた。
誰かに足を軽く蹴られたら身体全体がバラバラになってしまいそうだった。
「離婚届、もらってきてやるから、今度来るときまで用意しておいてくれるかな」
「本気なの?」
「本気以外に何があるんだ」
「嬉しいけど、彼は何をするか分からないわ」
「作戦は今度ゆっくり考えよう。これから毎日君に連絡を取りたいから、携帯電話の番号を教えてくれるかな」
「携帯は置いてきたのよ」
「忘れてきたのか?」
「違うの。携帯を持っていたら、あの人きっと一日に何百回も電話をかけてくるからオンには出来ないし、持っていても意味がないのよ。携帯で怯えるのは嫌だから」
「だったら新しい携帯電話を買えばいいんじゃないか?」
「そうね、落ち着いたらね。まだそこまで考えるこころの余裕がないのよ」
「そうだな、君の気持ちは分かったよ」
携帯電話の電源をオンにさえできないほど、カノンは夫を怯えていた。
それほどまでに彼女を追い詰めた夫に、私は出来るだけ早く会いたいと思いながら部屋を出た。
御成門駅の近くまで来ると、昼間上った東京タワーが何色かのイルミネーションを駆使して、その存在を都民に堂々と示していた。
ゲストハウスに帰ったのは午後九時を過ぎていた。
ドアを開けると名前に「織」がついた三人がリビングに勢揃いしていた。
「あっ、おかえりなさい。小野さん、ちょうどよかった」
いきなり沙織が言った。
私がリビングに入ると香織はお酒を、沙織は白ワインを、詩織はコーラをそれぞれ飲んでいた。
「ちょうどよかったって?」
「香織さん、やっぱり元ダーさんのこと断ったんだって。それでね、実は・・・」
「沙織ちゃん、そんな、いきなり言わないで。小野さんだって帰ってきたばかりなんだから」
香織が待ったをかけた。
「かまわないじゃない、いい話なんだから」
沙織が言った。
私は何のことか分からず、リビングに突っ立っていた。
「ところで小野さん、昨夜はどこかに泊まったんですか?朝もいなかったし、出張?」
詩織が不機嫌そうに質問してきた。
「あっ、いや、ちょっとね、寂しい公園に泊まったんだ。公園を一晩中見守っていた」
「公園に泊まって、この時間にお帰りですか?」
「いや、それが大変だったんだ。まあいろいろと」
「意味が分かりません」
詩織は不満そうな表情で言った。
私は疲れ切っていて言葉もスムーズに出なかった。
「小野さん、死人みたいな顔をしているよ。どうしたの?」
沙織が無茶苦茶なことを言った。
確かに私は疲労困憊していて、顔がげっそりとしているのかも知れなかった。
沙織に足をコンっと軽く蹴られただけで、一気に身体がバラバラに分解してしまいそうだった。
「ちょっとシャワーを浴びてから話を聞くよ」
そう言って私はようやく部屋に入り、それからバスルームへ飛び込んだ。
鏡で見る自分の顔は目が落ち窪み頬は痩け、明らかに沙織が言うように死相が漂っていた。
カノンとの関係で身体に備蓄していたすべての精神力と体力とを使い果たして、夏の終わりの力尽きた蝉の死骸のような状態になっていた。
シャワーを浴びて少しだけ生気を蘇らせた。
バスルームにいる間、ずっとカノンのことを考えていた。
身体に微かに残っていた彼女の匂いを惜しむようにゆっくりとボディソープで洗い流した。
「携帯を持って出ると、きっと夫は何百回も電話をかけてくるわ。夫と関わっている気持ちになるから嫌なの。電源を切っていたらいいとかいう問題じゃないのよ」
そうカノンは説明した。
何百回も電話をしてくるかも知れないなんて、いったいどんな奴なんだ。
私は携帯電話の話だけで、早くもカノンの夫に敵意を感じた。
バスルームから出ると名前に「織」のついた三人はますますご機嫌な様子で飲んでいた。
「シャワーの時間が長いよ。どこを洗っていたの?」
沙織が容赦ないものの言い方で私を責めた。
冷蔵庫から缶ビールを取り出してひとつだけ空いている椅子に座った。
「小野さん、外泊ですか?」
「だから公園を守っていたんだ」
「意味が分からない。からかわないでちゃんと答えてください」
詩織が怒った顔で言った。
意味が分からないって、君が不機嫌そうな訳が分からないよと私は思った。
「それより香織さんが元ダーさんのヨリ戻しを断ったって、さっき言ってたんじゃなかったの?」
「そうだよ。だからよかったねって三人で祝い酒ってわけ。元ダーさんにキチンと電話で断ったんだって。
会うと心が揺らいで本当の気持ちを伝えられないよって、私たちが香織さんにアドバイスしたのがよかったんだよ」
沙織がワイングラスを回しながら説明した。
「香織さん、それが本当の気持ちだったの?」
私は正面に座っている香織に訊いた。
香織は小さなグラスで日本酒を飲んでいた。
片手で頬杖をついてけだるそうな表情をしていた。
「そりゃそうだよ、小野さん。訊くまでもないことだよ。それからね、もっといいことがあったのよ」
沙織がまるでイニシャチブをとっているかのように言った。
香織が「フフフッ」と微かに笑った。
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