第19話
歌音(カノン) 五
カノンのマンションを出て、ふたりが知り合うきっかけとなった粗末な公園を抜けて通りに出ると、北北西方向に東京タワーが見えた。
その方向へ歩いて行くと芝公園というおとなの公園に入った。
公園内には図書館も設置されていて、ベンチの配置から植樹の配列などに念入りな計画と配慮が間違いなく窺えた。
公園というものはこうでなくちゃいけない。
「これが本来の公園の姿なんだよ。芝公園は素晴らしい」
「またその話なの。変な人」
私たちは芝公園を縦にぶち抜いて東京タワーへ向かって歩いた。
汐留の職場に勤めるようになってから、いつも帰りに御成門の駅が近くなってくると、目前にライトアップされた美しい東京タワーを数え切れないほど見ている。
でも実際に上ったのは高校生時代の修学旅行のとき一度きりだ。
「タワー、上る?」
「いいわよ」
私たちは東京タワーの大展望台へ上がった。
まだ昼前のタワー内には観光客の姿は少なく、腑抜けた感じだった。
眼下に見える土曜日の東京の街もそれほど忙しい様子ではなくて、少し拍子抜けした。
「ここはやっぱり夜景だろ。昼間来てもだめだな」
「じゃあ今度は夜に来ようか」
「そうだな。でもせっかくだから展望台を一周してみようよ」
「そうね」
私たちは若いカップルのように手をつなぐなんて青臭いことはしなかったが、ときどきカノンの腰や背中に手を回して寄り添って歩いた。
彼女は人目を引くような長身ではなかったが抜群のスタイルだったし、長いブラウンヘアに覆われたモデルのような彫の深い顔に、周囲の人々は目を留めて見入っているようだった。
昼間外で見るカノンは見違えるように洗練された女性という印象だった。
「美人だな」
「えっ?」
「これまで夜ばかりだったから気づかなかったが、こうして昼間正面から見ると、君はとても綺麗だよ」
「よくはっきりとそういうことが言えるわね。嘘っぽく聞こえるよ」
カノンは笑った。
綺麗に並んだ白い歯が魅力的だった。私はもしかして、とても素敵な女性とこうして歩いているのかもしれないと思った。
夫との間に暗い過去と嫌な思いを溜め込んで、それらから逃げている女性だとは、誰が見ても想像もつかないだろう。
それほどカノンは素晴らしかった。
東京タワーを出てから六本木ヒルズへ向かった。
「ヒルズで食べるランチは目玉が飛び出るかな?」
「そんなことないわよ。六本木だからといって大して違わないと思うわ」
「どうして知っているの?」
「どうしてって、六本木や赤坂なんかは前の仕事の関係でしょっちゅう来ていたから。最近はめったに出ないけど」
「君はいったいどういう仕事をしていたんだ?」
私の問いかけにもカノンは「フフッ」と微笑んだだけで、何も答えようとはしなかった。
私たちは六本木ヒルズのけやき坂通りの二階にあるイタリアンレストランに入った。
カノンの言うとおりランチの料金はそれほど高くなかった。
パスタとドルチェのセットが千円ほどだった。
「どう?高くないでしょ」
「そうだな、俺でも奢れそうだ」
「あなたと知り合ってよかった。こんなふうにのんびりと六本木でランチなんて何年振りかしら。気持ちも落ち着いてきたわ。本当にありがとう」
カノンは急に畏まった姿勢に直ってから言った。
「でもまだこれからだろ。離婚届の問題が待っているからな」
「そうね。でも彼との過去は消せないわ」
食後の熱いコーヒーを飲んでから、私たちはいつの間にか言葉が途切れた。
彼女は黙ったままテラスの外をずっと眺め続けていた。
私はその彼女の表情を眺め続けた。
それからヒルズの五十二階にあるスカイギャラリーに上がった。
東京タワーの大展望台の二倍近くの料金だった。
長年社会に貢献してきた東京タワーにこそ、感謝の意をこめて高い料金設定が必要ではないのか。
ヒルズの展望台の高額料金に私は納得がいかなかった。
「ここも夜に来たほうがずっと綺麗だろうな」
「そうね」
「今日は高いところばかり上っているね。フラフラしてきたよ」
「何言ってるの、変な人」
ヒルズを出て、来た道をゆっくりと歩いた。
カノンは私と知り合ってよかったと言ってくれたが、私も東京に出てきて以来、こんなに穏やかな気持ちで女性と歩くのは初めてだった。
こころの整理をするために大阪を離れて四ヶ月あまり、ようやくあの出来事の傷が癒されていくような気がした。
だが、考えてみれば本当に元妻への懺悔の気持ちが届いているのだろうか?
いや、元妻への罪を償おうと自分を違う場所に置いて、懺悔の日々を送るつもりではなかったのか?
私は律子に我侭を通してまでも、自分に制裁を与えようとしたのではなかったのか?
それがある日突然カノンという女性と知り合い、急激な関係に陥っている。
こんなはずではなかった。
元妻が今いる遠い世界から私を見ているとすれば、こんな無様な姿に呆れ果てて、決して許そうとしないのではないか?
「何を考えているの?」
「ああ、いろいろとね」
いつの間にか芝公園に入っていた。時刻は午後三時を少し過ぎていた。
私たちはベンチに腰をかけた。土曜日のこの時間は公園に人々の姿は少なかった。
平日だと営業で疲れたサラリーマンや授業に辟易した学生たちがこの場所でつかの間の安息を得るために寛いでいるのだろうが、この日はベビーカーを持った親子連れやカップルの姿が目立った。
「あなたも消したい過去があるの?」
「誰だってあるよ。でも消せないものは癒されていくのを待つしかないんだ」
「そうね」
カノンは「フフッ」と笑ってから、「行こう」と言って立ち上がり、私の手を取った。
私たちはまるで若いカップルのように手をつないで歩いた。
青臭い若者みたいにつないだ手を少し振りながら公園を歩いた。
そして木陰で立ち止まり、軽くキスをした。
何かの映画にこういうシーンがあったような気がしたが思い出せなかった。
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