第18話
歌音(カノン) 四
「あなたの大阪のころの話をもっと訊きたいわ。結婚したことはないの?」
「あるよ、一度」
「一度で十分でしょ。その奥さんとは離婚?」
「愛想をつかされたんだ。ロクでもない男だってね」
「ロクでもないことをしたのね」
「何もしていないさ。ちょっと浮気がばれただけだ」
「ロクでもない男ね」
「謝るよ」
私たちはときどき黙り込み、コーヒーを飲み、そして身体を寄せ合いながら静かに言葉を交わした。
朝までこのまま話し込んでもかまわないと思った。
「ベッドで話をしたいわ」
いつの間にか日付が替わっていた。
私たちは交代でシャワーを浴びて裸のままベッドで抱き合い、そして会話を再開した。
でもほとんどが私の大阪での悪事に対してのカノンからの詰問だった。
もちろんすべてを語ったわけではないが、途中からカノンは私の顔をときどき平手で叩いた。
「だから、もう質問するなって。訊くから俺は答えるだろ。気分が悪くなるなら訊くなって。そんなに酷いことなんかしていないのだから」
「酷いよ。自殺した奥さんが可哀相だわ。家庭的ないい奥さんをあなたは苦しめたのよ」
そう言ってカノンは涙を流した。
彼女は今夜、ずっと泣いているような気がした。私は反論の余地もなかった。
「それに、一回休みの彼女のことをどうするのよ」
「約束は守るつもりだよ。でも今はまだ戻れない。自分の気持ちに納得がいくまでだめなんだ」
「どれだけいい加減な男なの、信じられない人ね」
そう言いながらもカノンは私に覆いかぶさってきた。
「いい加減な男なんだろ?」
「最低ね」
「なぜセックスするんだ?」
「最低だけど、好きよ」
この前と違って、私とカノンは少しだけだが精神的な安心感を伴ったつながりのように思えた。
「愛してしまうかもしれないな。会うのが今日で四度目なのに」
「まさか」
「どうしてまさかなんだ?」
「だって、私は人妻なのよ。離婚に応じてもらえない夫がいる人妻」
「離婚すればいい。離婚届にサインしてもらえばいいんだ」
「だからそれが出来ないのよ。絶対にしないんだから」
「俺がもらってきてやるよ」
「馬鹿みたい」
「何が?」
「だって、私と結婚するわけじゃないでしょ。なら、私が人妻だってかまわないじゃないの。それに大阪の彼女のことはどうするのよ?あなたって本当におかしな人ね」
「私だってまだ三十七歳、離婚したいけど夫がサインしてくれないって言うからだよ」
私はカノンの痣になった首筋にキスをしながら言った。
この痣もいずれは治癒するだろう。そのころまでには離婚届にサインをもらってやろう。
心地よい感触の胸のふくらみが私の手の中で息づいていた。
「あなた変よ。私みたいな女と関わって、馬鹿みたい」
カノンが耳元で呟くように言った。
私はその言葉のあと間もなく眠りに落ちてしまった。
律子の心配そうな顔が浅い眠りの中で浮かんだが、すぐに消えた。
翌日、目を覚ますとカノンはすでに起きて朝食の準備をしていた。
ソーセージが焼ける匂いのあと、コーヒーの香りがキッチンからベッドにまで漂ってきて、私は我慢できずに起きた。
時計を見るともう午前十時を過ぎていた。
「シャワーを浴びたら?」
「ありがとう。君は?」
「私はとっくにシャワーを浴びてお化粧もしたわ。どこに行くわけじゃないんだけど」
「じゃあ、どこかに出かけようか。俺は何も予定がないし」
「ハーレムに戻らなくていいの?」
「誰が待っているわけじゃなし。何だったらずっとここに置いてくれたっていいんだ」
「本気にするわよ」
「かまわないさ。どうせ浮き草人生なんだから」
「何言ってるの、馬鹿みたい」
本当に馬鹿みたいだ。
私には大阪に律子という何の不満も感じない女性がいるというのに。
私の我侭を何も言わずに聞き入れてくれて、今もずっと大阪で待ち続けてくれているというのに。
そんな律子を裏切れるはずはないのだ。
「何を考えているの?」
テーブルを見つめ続けていた私にカノンは問いかけてきた。
「いや、いろんなことをね」
用意してくれた厚切りトーストとスクランブルエッグ、ウインナー、レタスとトマトのサラダを私は美味しく食べた。
女性と暮らすということは、こういう健康的で素敵な朝食をともに出来るということなのだ。
死んでしまった元妻との暮らしの中に、このような場面があったのかどうかさえ私は忘れてしまっていた。
「このスクランブルエッグは最高だな。高級レストランの朝食みたいだ」
「食べたことがあるの?」
「スクランブルエッグを?」
「違うわよ、高級レストランの朝食」
「ないね」
「変な人ね」
カノンとは知り合って間もないのに会話のタイミングやペースが合った。
律子とは異なるペースと内容だったが、流れに任せてスムーズに運ぶ会話が心地良かった。
私のつまらないユーモアも分かっていたし、とぼけたことを言ったとしても彼女は軽く一蹴した。
おとなの会話とも言えた。
カノンは最初に会ったときや、この部屋で泣いたときのあの目が消えていた。
どうにもならなくて参っていた精神状態から少しだけ解き放たれたようだった。
そういえば昨夜この部屋に入ってから彼女はウイスキーを飲まなかった。
「部屋でウイスキーは飲まないのか?」
「もともとむやみには飲まないのよ」
「それは残念だな」
「そんな変なことばかり言ってないで、どこかに行こうよ。相変わらず馬鹿みたいな陽気だし」
「ご主人が捜しているんだろ?昼間外に出たら見つかるぞ」
「あなたが守ってくれるんでしょ」
「当然だろ」
「じゃあ安心」
「デートか?」
「そうなんじゃない?男と女が出かけるんだから」
そんなやりとりのあと私たちは出かけた。
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