第17話


    歌音(カノン) 三


「お湯が冷めちゃうよ」


 私たちは夏だというのに熱いコーヒーを飲んだ。

 コーヒーは熱いからコーヒーなのだ。


 アイスコーヒーなんて、冷めた男女関係と同じで、その存在自体に私は疑問を持っている。


 恋人にしても夫婦にしても、熱い気持ちがなくなれば終わりだし、いずれか片方が冷めてしまった場合でも、ふたりの関係は意味を成さない。


 元妻が私への気持ちが冷めて離婚を要求したのと同様に、カノンも夫と別れるべきなのだ。


「さっき何を考えていたの?じっと固まったままだったわよ」


「たいしたことを考えていたわけじゃないんだ」


「でもどんなことを考えていたの?知りたいわ」


「大阪にいたときのことだよ。不思議なことがあったんだ」


「聞かせて欲しい」


 私はモスグリーンの女ことをかいつまんで話をした。


「俺は大阪で十年余りも街金融業を小さくやっていたんだ。女の子をひとり事務所に置いてね、ひとりで顧客先からスポンサーまで駆けずり回って、そりゃあ大変だったよ。

 独立してからずっと大きな不渡り事故はなかったんだけど、九年目の春に千五百万円ほどの大口の不渡りを掴んでしまってね、その債権者集会の帰りにヤケクソになって地下街を歩いていたんだ。

 そしたら俺の前にモスグリーンのスーツを着て、俺よりももっともっと気だるそうな気配を撒き散らせて、ショーウインドを眺めながら歩いている女の人が見えたんだよ。

 身体のすべての部分から強烈な倦怠感を発していたね。俺にはそう感じたよ。

 四十歳前後の品のよい女性だったけど、バッグを振り回すようにして歩いていたし、まるで茫然自失していたみたいだったな」


「うん、それで?」


「俺は引き込まれるようにその女性に声をかけてね、それから一気に男女の関係に走ってしまったんだ。本当に引きずり込まれるようだったんだ。何の躊躇もなかったよ。まるでカノンと俺みたいに」


 カノンは神妙な顔をして話をじっと聞いていた。


「まあ会ったのは三度だけだったんだけどね、三度目に彼女のマンションに呼ばれて車を飛ばして行ってみたら、息子さんの遺影があったんだ。

 小学校一年生だったかな、もう忘れてしまったけど。彼女は俺のために手作りの料理を振舞ってくれて、ワインを飲みながら息子さんの話をするんだ。

 その年の春、夫と三人で郊外のスーパーへ買い物に行ったときに、駐車場内で夫が不注意で息子さんを撥ねてしまったんだ。コツンと撥ねただけらしいんだが、頭の打ちどころが悪かったようだな。

 救急車が駆けつけたときにはすでに遅かった。夫は取り乱してしまって何も出来なかったらしいんだ。そりゃあ無理もないことだよ、自分で撥ねてしまったんだからな。

 でも、彼女は息子さんが自分の腕の中で息を引き取っていくのを見続けたって言うんだ。本当にすごい話さ」


「奥さんも息子さんも、それにご主人も可哀相」


 そう言ってカノンは涙を流した。


「葬儀が終わって落ち着く間もなく、今度は夫が離婚して欲しいと言い出したらしい」


「どうして?ふたりの間の子供の事故のあとに、よくそんなことが言えるわね。奥さんが可哀相。信じられないわ」


 カノンは泣きながら自分のことのように怒った。


「ご主人は堪らなかったんだよ。子供が突然いなくなってしまったあとのふたりだけの暮らしに、きっと耐えられなかったんだよ。君の夫とは真逆だ」


「どういうこと?」


「君の夫は赤ん坊が亡くなってもまた欲しいと言って、離婚なんて話にも出なかったんだろ。逆に君が離婚して欲しいと言っても応じないんだろ。

 でもモスグリーンの女の夫は離婚してくれと迫ったんだ。だから真逆だよ」


「それは違うと思うわ。だってそのご夫婦の子供さんは事故死よ。事故死と病死とは受ける傷は大きく違うような気がするわ。

 ましてそのご夫婦の子供さんは小学生にまで成長していたんでしょ。私たちの産まれたばかりの赤ちゃんが亡くなったのとは、ダメージの大きさが全く違うと思うの」


 カノンは反論した。私は彼女の言うとおりかも知れないと思った。


「確かにそうかも知れないな」


「それでその女の人はどうなったの?」


「消えちゃったんだ」


「えっ?」


「家に呼ばれた日、手料理をご馳走になって、また連絡すると言って別れたんだけど、数日後には連絡が取れなくなってね、行ってみたら部屋はもぬけの殻になっていたよ。

 疾風のように目の前に現れて、あっという間に消えてしまった感覚だったな」


「そうだったんだ」


 カノンはしばらく黙っていた。


 時刻は午後十一時半を過ぎていた。


 エアコンが丁度よい温度に設定されていて心地よかった。


 外の音は全く聞こえず、エアコンの静かな音と壁の丸時計が刻む秒音だけが遠慮がちにふたりの耳に届いていた。


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