第16話


   歌音(カノン) 二



「夫はベーシストなの。昔はかなり売れていたのよ。バンドのツアーに同行したり、レコーディングのスタジオミュージシャンとしても引っ張りだこだったの。知らないかしら、井上正孝っていう名前なんだけど」


「いや、音楽方面には疎いからね、知らないな」


「そうよね。音楽に興味がなければ知らないわよね。ロックバンドのベーシストじゃなくて、ポップスやときには歌謡曲のレコーディングにも呼ばれている人だから」


「興味がないことはないんだけど、有名な人なんだな」


「有名ってほどじゃないんだけど、昔は音楽雑誌に載ったりしていたから、業界では知られていた時期があったのよ。

 その彼と二十八歳のときに結婚したのだけど、なかなか子宝に恵まれなかったの。でも三十四歳でようやく女の子をひとり産んだのよ。

 夫はすごく喜んで、人形やオモチャを一杯買ってきたわ。だけどその赤ちゃん、虚弱体質でね、二ヶ月も経たないうちに高熱を出して肺炎で亡くなってしまったの。

 夫は人が変わったように荒れて、私を責めるのよ。俺のツアー中にお前が赤ん坊の健康管理を怠ったんだって。

 それから夫は子供がどうしても欲しいと言って、二日に一度は私の身体を求めてくるの。ごめんなさいね、こんな話、あなたにはしたくないんだけど」


「気にしなくていい」


「ありがとう。それでね、私、そのあと二度も妊娠したのよ。でも毎回流れてしまうの」


「流産ってことなのか?」


「そう。そのたびに身体がボロボロになって、入院してようやく少し回復して自宅に帰っても、また毎日のようにセックスを強要するの。

 子供を欲しがる夫の気持ちも少しは分かるから、身体が辛くても応じていたのよ。でもね、二度流産してからはもう妊娠しなくなったのよ。

 そしたら・・・夫は妊娠しない私の身体が憎いのでしょうね、酷いことをするのよ。思い出したくもない・・・」


 私はカノンの背中を抱き、流れ出る涙を吸った。


「セックスの途中から私の首を手や紐で絞めるの。首を絞められて私が苦しそうにしているのを見ながら彼が終わるのよ。それからは私の首を絞めることが・・・彼の性癖になってしまったの」


 言い終わると同時にカノンは嗚咽した。


「酷い話だな」


「私はもう子供が産めない身体だから離婚してって何度もお願いしているのよ。だけど彼・・・絶対に離婚しないと言って。

 それからは、彼が自宅にいる間は私を二階の部屋から出してくれないの。軟禁状態なのよ。彼がいる間はお風呂にも入れないし、料理も作れなくて・・・」


 カノンは泣きながらも話を続けた。


「何だよ、それ。トイレや食事はどうしていたんだ?」


「出前を二人分頼んで、二階の部屋の前に置くのよ、飲み物も添えてね。トイレは二階にもあるから不自由はないのだけど、まるで監獄みたい。

 彼が仕事で出ているときにようやく一階に降りて、お風呂に入ったり掃除をしたりね、馬鹿みたいでしょ。そんな暮らしがずっと続いていたのよ。

 でも、そのうちに仕事が少なくなってきて、今はツアーなんか滅多にお声がかからないからほとんど家にいて、二日に一度はセックスを強要されて、離婚には応じてくれないし・・・それで彼が仕事に出ているうちにここに逃げて来たってわけなの。もう着の身着のままよ」


「金は大丈夫なのか?」


「当面はね。少し貯めていたから」


 ようやくカノンの涙が止まった。


「コーヒーでも飲もうか」


「そうね」


「熱いコーヒーを淹れてやるよ」


 私はキッチンに入って湯沸しポットのスイッチを入れた。


 ポットが沸騰するまでの数分間、大阪にいたときに行きずりで知り合ったモスグリーンの女のことを思い出した。


 私が街金業として独立後、初めての大口の不渡り事故を掴んで、その債権者集会の帰りに梅田地下街で知り合った女だった。


 カノンとの急速度の関係はモスグリーンの女との感覚と似ていた。


 モスグリーンの女は、私と知り合う少し前に小学生になるひとり息子が車の事故で亡くなり、夫が大きな精神的ショックを受けて、一緒に暮らせないから離婚してくれと懇願され、それに応じていた。


 カノンの夫とは真逆だと思った。



「何を考えているの?」


 いつの間にか後ろにカノンが立っていた。ポットの湯はすでに沸騰していた。


「ああ、ごめん。沸騰しているのに気がつかなかった」


「いいのよ、私が淹れるから」


「カノン」


「うん?」


「何か俺にして欲しいことがあれば遠慮しないで言えばいい」


「いいのよ、私のことなんか気にしないで。自分で何とかしてみるから」


「俺たち深い関係じゃないのか?」


「さあ、どうかしら?」


「何だよ、それ」


 私はカノンを引き寄せ、しっかりと抱きしめた。

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