第15話
歌音(カノン) 一
そろそろ梅雨明け宣言が出されそうだった。
だが今季は傘をさして舗道を歩いた記憶や、電車の中で濡れた傘が人に触れないかを気にしたこともなかった。
そして私は「土砂降りの雨が降ればいいのに」と吐き捨てるように言っていたカノンの部屋の鍵を持っていた。
そのこと自体には何ら違和感はなかったが、ずっと持ち続けていてよいものかを彼女に確認しないといけないと思っていた。
翌週の金曜日の夜、私はいつものように立ち飲み屋に疲れた身体をすべり込ませ、この日は普段三合のところを二合で切り上げて店を出た。
相変わらず雨は降らなかった。夜空は今夜も光り輝いていた。
公園に入った時刻は午後十時過ぎ、これまでと同じだった。
これまでと違っていたのは、女の名前を知ったことと彼女の部屋の鍵を持っていること、それと身体をつないだことで、まるっきり他人とは言えない関係になったということだ。
公園に足を踏み入れると今夜もカノンがいた。
これまでと同様に鉄棒に腰を凭れかけてウイスキーのポケット瓶を持っていた。
その姿を見ただけで私は安堵した。
「よかった。金曜日は間違いなくいると思ったよ」
私は木曜日まで、意識的に公園が見えない道を選んで帰ったのだ。
「今週はあなたが部屋に直接来てくれると思っていたのに、ちっとも来ないからこの時間に降りてきたのよ。金曜日の公園にこだわらなくてもいいのに」
苦笑いをしながらカノンは言った。
今夜はホットピンクのポロシャツではなく、薄いオレンジ色のTシャツにジーンズ姿だった。
「他の曜日に公園を横切って、もしあんたがいなかったら落胆するだろうなって思ってね。こんなに粗末な扱いをされている公園に、あんたがいることを期待して入って、姿が見えなかったら公園をぶっ壊したくなるからな」
「あなたっていつも面白いことを言うのね。よく分からない人」
「鍵を持ったままだから、返さないといけないかなと思ってね」
「どういうこと?」
カノンは顔だけ私のほうを向けて言った。
「だから鍵のことだよ」
「私のことを気にかけてくれるのじゃなかったの?」
「気にかけているさ」
「だったら持っていて」
吐き捨てるように言って、カノンは再びウイスキーのポケット瓶を口に運んだ。
今夜はひとつひとつの動きが堂々としていた。
まるで恵比寿や青山辺りを闊歩する生意気なセレブ女性みたいだった。
「俺を待っていてくれたのか?」
「待っていたとも言えるし、そうでないとも言えるわ」
「どういうことかな?」
「来るんでしょ、部屋に」
「そうだな」
この前の金曜日の夜、私の前で震えながら泣いたカノンとは別人のような態度だった。
でも今夜の態度が普段の彼女なのかも知れない。
私は当然のようにエレベータの扉が閉まるとカノンの腰を抱き寄せた。
「私たち、おかしいわね」
エレベータの扉が開き、唇を離してからカノンは言った。
「なぜ?」
「お互い何も知らないのに、こんなふうにためらいもなくキスをしたり抱き合ったり」
「何も知らないことはないだろ。もうすっかり深い関係だ」
「そうなんだ、知らなかったわ」
カノンの部屋はこの前と同様に綺麗に整っていた。
「あんたのことはよく知っている。大前歌音だろ。今は井上歌音。訳あってこのマンションへ引っ越してきた」
「私のこと、カノンって呼んでくれていいのよ。あなた、もう私の部屋の鍵を持っているのだから」
「じゃあ俺のことも浩一って呼んでくれてかまわない」
「それは無理よ。恥ずかしい」
「好きに呼べばいいんだ」
私の腕を解いてからカノンはキッチンへ立って、しばらくして冷たいコーラをグラスに入れて持ってきた。
「この部屋はウイークリーマンションなのよ。ほとんど何も持たずに家を出たから、こういう部屋かホテルに住むしかなかったの」
そういえば部屋の調度や電化製品は必要最低限のものが用意されているが、装飾品の類は壁の時計と窓の近くに置かれた小さな観葉植物以外になかった。
この前は彼女だけしか見えていなかったが、今夜は部屋の様子をゆっくり観察するこころのゆとりがあった。
「ずっとここにいるわけにいかないんじゃないのか?」
「なぜ?」
「高いんだろ、こういう部屋って」
「そんなことないわ。免許証の提示だけですぐに入れたし、一ヶ月十万円もしないのよ」
「君はどんな仕事をしているんだ?」
私は一気にコーラを半分ほど飲んでから訊いた。
「仕事はしていないのよ。でも、いろんなことが片付いたら働かなきゃね」
持っていたグラスを置き、肩が少し沈むくらいのため息を吐いてカノンは言った。
「いろんなことって?」
「いつまでも夫から逃げているわけにはいかないでしょ。彼のことだから多分、岐阜の私の実家に連絡していると思うし、親も心配するから、先ず夫との関係に何とかケリをつけなきゃね」
「首を絞めるご主人のことだな」
カノンは私の言葉に少し眉を寄せて黙った。
「悪かった。首を絞めるご主人なんて言い方はよくなかった」
「そんなことはかまわないの。離婚したいけど同意してくれないことが問題なのよ。そのことをキチンとしないと先に進めないでしょ」
「離婚するって、もう決めているのか?」
「私だってまだ三十七よ。夫との結婚生活は最悪だったわ。思い出したくもない」
カノンは吐き捨てるように言って、この前の夜の表情に変わった。
ついさっきまでの堂々とした態度は消えていた。
「きっと彼、私を捜しているわ」
「捜すと言ったって、この広い東京でどうやって捜せるんだよ」
「分からない。でも昼間は外に出るのが怖いのよ」
そう言ってカノンは暗い表情になった。
「教えてくれないか、君のこれまでのこと。無理にとは言わないけど」
「分かったわ」
カノンは絨毯の上に足を崩して俯いたまま、少しずつ思い起こすように話を始めた。
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