第14話


  再びゲストハウス 二


 いったいどれだけ身体を洗っているのだろうと不思議に思うくらい綾香のシャワー時間は長かった。


 おそらくバスタブにお湯を張ってジェットバスではしゃいでいるのだろうと私は推測した。


 綾香は三十分以上経ってようやくバスルームから出てきた。

 今度は白のバスタオルを巻いているだけの姿だったので、私は目玉が飛び出しそうになってしまった。


「皆さんは?」


「ああ、沙織さんは仕事の支度で、詩織さんはもう少し寝るって」


「そうなんだ・・・」


 綾香はそう言って私の椅子のうしろを通って部屋に入った。


 私は冷蔵庫から少しだけ残っていたチーズを取り出して沙織がいつも飲んでいる白ワインを出してきた。

 まだボトル半分程度残っていたが、今度新しい白ワインを買ってきて補充してやろうと思った。


「私にもワインください」


「えっ?」


 さっきまでドライヤーの音が聞こえていたのに、いつの間にか綾香がリビングに戻って来ていた。


 黒のキャミソールの胸元から三分の一ほどがはみ出た豊かな盛り上がりと、白っぽい短パンから覗く太ももに戸惑いながらも、食器棚からワイングラスを取り出して二センチほど注いでやった。


「お疲れ様」


「ああ、お疲れ」


「美味しい、このワイン」


 綾香にしては珍しく歯を見せて笑った。


「小野さんとふたりだけでリビングで飲むのは初めてね」


「そうだったかな?」


「そうよ」


 長時間のシャワーのあとだからかもしれないが、綾香の少し紅潮した顔が妙に色っぽく、ボディーソープの甘い香りとともに私をドギマギさせた。


 私がここに入居したとき、他の三人と同様に綾香はすでに住んでいた。


 皆の仕事は日々が経過するうちに自然と知るようになり、香織は美容師、沙織はアロマのマッサージ師、詩織は事務の仕事だったが、綾香については今も分からずじまいだった。


 彼女はいつも夕方近くまで部屋にいて、ようやく四時を過ぎたころにシャワーを浴びて、身体中から強烈な香水の匂いを漂わせて慌しく出かける。


 私は土日が基本的に休みなのだが、綾香は土曜日でも日曜日でも同様のライフサイクルの様子だった。


 他の三人は綾香の仕事についてあまり関心がないようだったが、話題に上ると「お水よ」と一刀のごとくに口を揃えて決めつけていた。


「小野さんは朝から何をしているの?」


「何って?」


「今日は土曜日でしょ。仕事は休みじゃないの?」


「ああ、俺は今日、朝帰りなんだ」


「朝帰り?朝まで飲んでたんですか」


「いや、飲んでたわけじゃないんだ。ちょっといろいろとあってね。終電を逃してしまって、公園で夜を明かしたんだよ」


 綾香は「そうなんだ」と頷いたが、それ以上は訊いてこなかった。


「ちょっと訊いてもかまわないかな?」


「なあに?」


「綾ちゃんっていつも帰りが深夜だったり朝だったりするけど、いったいどんな仕事をしているの?」


「仕事?」


 綾香はワインを味わうようにゆっくりと飲んで、それから私の顔を観察するように見て不思議そうに訊いてきた。


 彼女の一挙手一投足がゆるやかで落ち着いていた。

 まだおそらく二十代前半のはずだが、ふてぶてしさを感じるほど仕草が堂々としていた。


「そう、俺とは生活のリズムがほとんど正反対だから、何をしているのかなって思ってね」


「小野さん、私に興味があるの?」


「いや、まあ、その・・・ルームメイトだからね」


「小野さんって優しいんだね」


「なぜ?」


 綾香はワイングラスを弄びながら私の目を見て笑った。


 綾香の笑顔をこんなふうに近くで見たことがこれまでなかった。


 いつも不機嫌そうな表情でリビングを横切る綾香の姿や、オシャレをして香水の匂いを巻き散らかしながら、ブスッとした顔で出かける綾香しか私には印象がなかった。


 今夜のようにラフ過ぎる格好で目の前に座り、口をあけて笑う綾香は初めてだった。

 いつもは仏頂面なので気づかなかったが、よく見ると愛くるしい顔をしていた。


「だって、私がお風呂から出てきてリビングに誰もいなかったら、皆が私を避けていると思うんじゃないかって気を遣ってくれたんでしょ?」


「いや、単に向かい酒をしたかっただけだよ。今日は休みだから」


「ありがとう、小野さん」


 綾香はグラスのワインを飲み干し、「じゃあおやすみなさい」と言って部屋に戻った。


 綾香の仕事については判明しなかった。

 女性たちが「お水よ」と断言しているが果たしてそうなのか、私は残り少なくなった白ワインを注ぎながら考えた。


 さっきのあの愛くるしい笑顔と「お水」とは不似合いだと思った。

 今度は必ず訊き出してやろうと考えているうちに次第に睡魔に襲われ、私はようやく部屋に戻った。

 

 その日は一日中ほぼ瀕死の状態で、オーバーな表現をするとベッドで身動きひとつしない状態で寝続けた。


 最初に目が覚めると窓の外は腹立たしいほどの好天だった。


「梅雨なのに馬鹿みたいに良い天気ね。腹が立つ」と言っていたカノンの気持ちが理解できた。

 そして再び寝た。


 二度目に目が覚めると窓から西日が差し込んでいた。 

 今日一日を無駄に過ごしたことを後悔しているうちにさらに寝てしまった。


 そして三度目は空腹感で目が覚めた。

 時刻は午前零時を過ぎていた。


 私はシャワーを浴びて、意味のない時間に髭を剃った。

 身体にはカノンの匂いがまだ微かに残っているような気がした。


 彼女は今何をしているのだろう。会って三度目に身体をつなぐ関係に陥ったとしても、行きずりには違いない。


 でも、そんなカノンのことが気になった。

 彼女の電話番号も何も訊いていないが、私のバッグの中には彼女の部屋のキーが確かに入っていた。

 

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