第13話



   再びゲストハウス 一

 

 東急目黒線の新丸子駅で降りて多摩川の方面に歩く。


 土曜日の早朝、駅前には平日のような緊張感はなく、緩んだ雰囲気が漂っていた。


 昨夜から夜明けまでの出来事が嘘のような気がしてきた。

 どこか異空間で営まれた数時間のように思えてきた。


 でも事実として私の身体には大前歌音の匂いが確かに残っていた。

 下半身の脱力感は、久しぶりの激しいセックスの余韻を証明していた。


「歌に音と書いてカノンだって?本当なのかよ」


 私は声に出して呟き、ふらつきながらゲストハウスのドアを開けた。


「あら、お帰りなさい。小野さん、朝帰り?」


 ルームメイトの沙織が笑いながら言った。


 彼女は三十歳になったばかり、アロマのエステサロンに勤めている。

 ちょうど私が帰ったときにトイレから出たところだった。


「終電を逃したんだよ」


「珍しいね、小野さんが朝帰りなんて。どこで時間をつぶしていたの?」


「どこでって、その・・・実は何もない可哀相な公園を朝まで見守っていたんだ」


「えっ?」


「いや、なんでもない」


「変な小野さん」


 沙織が不思議そうな顔をした。


 でも沙織、本当なんだ。俺は朝まで公園をずっと見守っていたんだよ。


 俺の胸で安心して眠るまで抱きしめていたんだ。


「昨日の夜、三人で香織さんの元ダーの話で議論していたの」


 沙織はパジャマ姿のままリビングの椅子に座って言った。


 私は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、沙織の対面に座ってゆっくりと飲んだ。   

 

 四人のルームメイトの女性の中で、沙織は私に遠慮のない喋り方をする。

 屈託がなく悪い気はしないが戸惑うときがある。


「元ダーって?」


「だから香織さんの別れた旦那さんのことだよ。ヨリを戻したがっているんだって」


「へー、それはいい話じゃないか」


「だめだよ、そんなこと言っちゃ。DVと女狂いの元ダーだよ」


「酷い言い方だな」


 香織は三十代後半、ゲストハウスの四人の女性たちの中では最年長、都内に美容師として勤めている。


 あまり自身のことを多く語ろうとせず、私が知っているのは、別れた夫は腕利きの美容師なのだが病的な浮気性で、加えて暴力を振るうことも多く、実家の兄に間に入ってもらって離婚したのが三年ほど前、という程度だ。


 夫婦間に子供がいなかったこともあって、別れてからすぐにこのゲストハウスに入居した。


「酷い言い方って小野さん言うけど、香織さんの元ダー、本当に酷いことしたんだから」


 沙織は食器棚から自分のコーヒーカップを取り出し、ポットの湯を注いでインスタントコーヒーを作った。


 時刻はもう朝の八時を過ぎていた。私は一睡もしていなかったが眠気は全然襲ってこなかった。


「どうしたんですか?朝早くから」


 私と沙織の声が聞こえたのか、詩織が部屋から眠そうに目をこすりながら出てきた。


「香織さんの元ダーの話を小野さんにしているのよ」


「そうなんだ。そろそろ香織さんも起きてくる時間ですね」


「小野さんったらね、香織さんの元ダーがヨリを戻したがっているって話をしたら、それはいい話じゃないかって言うのよ。どう思う?信じられないよね」


 沙織は少し口を尖らせて詩織に向かって言った。


「絶対だめだと思う。小野さんだって香織さんが離婚した事情を知っているでしょ?そんなふうに簡単に言うのはおかしいと思います」


 詩織がメガネの縁を片手で持ちながら右横から言った。


「だめだよ、また同じことになるよ。私がそうだったんだから。ね、そう思うでしょ、小野さん」


「香織さん、もう一度考えてみようかな、なんて言うんですよ。だから香織さんと会ったら小野さんからもアドバイスしてあげてください」


 沙織と詩織が交互に私に迫った。詩織は生真面目すぎて、ちょっと引いてしまうときがあるのだ。


「でもイケメンなんだろ?」


「イケメンでも浮気性とDVじゃどうしようもないですよ。余計なことを香織さんに言っちゃだめですよ」


 詩織が私にダメ押しのように言った。


「分かったよ、心配ないって。でもな、戻ろうかなって思うってことは、香織さんはまだ元ダーリンさんのことを愛しているのかも知れないだろ」


 私は缶ビールを飲み干し、冷蔵庫からもう一缶取り出した。


「だめだよ、そんなことを言っちゃ。小野さんも反対してくれないと。女性の大切な話をしているのに、朝からビールばかり飲んで軽く意見をするのは不謹慎だよ」


「そうですよ。DVだし浮気性の元ダーなんだから、そんなふうに簡単に、まだ愛しているかも知れないなんて、無責任過ぎます」


 沙織と詩織がさらに順番に私の軽はずみな意見に物言いをしてきた。


「分かったからそんな大きな声で言うなよ。香織さんに聞こえるだろ。でもな、人間は変化するよ。香織さんの元ダーだって、深く反省して改心したかも知れないじゃないか」


 私は意見した。


「有り得ない」


「そう、人間って本質は変わらないのよ。私も有り得ないと思う。元ダーはDVはともかくとして、病的な浮気性らしいから」


 沙織と詩織が私の意見を全面否定した。


「DVはともかくとしてって、そっちのほうが問題なんじゃないか?浮気性は正すことができると思うけど、DVは病気だからな。暴力はいけないだろ」


 私は歌音(カノン)のことを思い浮かべた。

 彼女の首の幾筋もの内出血の痕が痛々しかった。


 やや黒ずんだ紫色の痣のことが蘇ってきて、私は少し苛立ちを覚えた。


「首を絞めるのよ」とカノンは震えながら言っていた。

 きっと夫の暴力から逃げてきたに違いないのだ。


「女性への暴力は絶対にいけないんだよ」


「分かったよ、小野さん。でも香織さんの元ダーは何度も浮気をやめるって言いながら治らなかったんだから、多分無理だよ」


 沙織がコーヒーカップを両手で持って、首をゆっくり左右に振りながら言った。


「男は一度惚れた女のことはなかなか忘れ去ることができないんだよ。男と女は本質的に違うって言うけど、俺なんかは別れてしまった相手のことをいつまでも未練たらしく思い続けているからね」


 私の意見に対して沙織と詩織は同意も反論もせず黙っていた。

 少しの沈黙が三人の空間に流れた。

 そこに綾香が帰って来た。


「ただいま」と言って、彼女はリビングの私たちを一瞥しただけで部屋に入ってしまった。


 綾香の場合は仕事上の朝帰りだった。私の朝帰りとは事情が百八十度異なる。


 綾香はルームメイトの女性の中で、ひとりだけ少し浮いた存在になっていた。


「綾ちゃんが帰ってきたからオヒラキにしますか?」


 詩織が小さな声で言った。沙織もその意見に頷いた。


 私には綾香と彼女たちの仲が特に悪いふうには見えなかった。


 私が真夜中に帰ってきたとき、リビングで四人仲良くテレビを見ていたこともあったし、キッチンで沙織と一緒にカレーを作っている姿を見たこともある。


 ただ、三人は綾香に対して何かとっつき難さと違和感を抱いているフシがあった。


 それは三人にはDVや何かの暴力から逃れてきたという共通点があるが、綾香は飄々と生きている雰囲気が窺えることにも起因しているように思えた。


 しばらくして綾香が薄い黒のキャミソール一枚の姿で出てきてバスルームに入った。

 私は目のやり場に困ってしまった。


「綾ちゃんっていつも遠慮なしなのには理解に苦しむわ。小野さんがいるのに、何よ、あの格好。女の私でも恥ずかしくなるよ」


 沙織が呆れた顔で言った。


「ホントね、少しは恥じらいを持てばいいのに。ねえ小野さん」


 詩織が私に同意を求めた。


「ああ、そうだね。でも・・・俺、見ていないから」


「見ていないって、見えるよ、あんな格好で目の前を通るんだから」


「まあ、少しはね・・・」


 冷や汗が背中を流れた。


「じゃあ小野さん、くれぐれも香織さんに軽はずみなこと言わないでね」


 沙織が念を押した。


 私は「分かったよ」と素直に頷いた。  

 

 私は綾香がバスルームから出てきたとき、誰もリビングにいなかったら嫌な気持ちになるだろうなと思って、ふたりが部屋に戻ったあとも残ってビールを飲んだ。

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