第12話


  再びポケット瓶の女 四


「過去からって、あんたはまだ過去を振り返るような年齢じゃないだろう?」


「どんなに若い子でも、それに幼児にだって過去はあるわ」


「そりゃあそうだけど・・・」


「それに私はもう若くはないのよ」


「あんたは素晴らしいよ。あんたに何があったのかは、男なら誰でも訊きたいと思うに違いない」


 女はしかし何も話そうとはしなかった。


 遠くを見つめるように少しだけ目を細めて黙ったままだった。

 まるで放心状態に陥っているようだった。


 私は終電がなくなってしまったことに気がついた。

 でもそんなことはもうどうでもよかった。


 女から何か言葉が出るのを待ち続けた。黙ったまま女はときどき涙を流した。

 そのたびに私は涙を拭いてやった。


「疲れたんじゃないのか?横になったらどうなんだ。俺はもうこんな時間だから朝まであんたを見守るよ」


「ごめんなさい」


「謝ることなんか何もない」


「ありがとう。私、このマンションに越してきてからもずっと感情が不安定で、どうにかなってしまいそうだったの。不安と寂しさでどう仕様もなくなったとき、公園に下りて普段あまり飲まないウイスキーで落ち着かせていたのよ」


「えっ、いつもは飲まないの?」


「気分によってね」


 女は苦笑いをした。そしてようやく私の名前を訊いてきた。


「俺は小野。職場は汐留の金融会社。コールセンターで客に金の催促をしている。つまらない仕事で参っている」


 女は「フフッ」と笑った。笑いながら目じりの涙を指で拭った。


「住んでいるところは多摩川のほとりのゲストハウス。女性四人に囲まれたハーレムのような暮らしをしている」


「何なの、それ」


「ゲストハウスを五人でシェアしているんだよ。四ヶ月ほど前に大阪からある事情があって東京に出てきたばかりなんだ。

 そして住んだところが四人のお嬢様たちがいらっしゃるシェアハウスだったってわけだよ。部屋はもちろん個室だけどね」


「想像つかないわ。そんな住み方があるのね」


「世の中、何でもあり。あり得ないことがないに等しいんだ。俺とあんたが初めて会ってからわずか三度目でこうなったことも、常識ではあり得ないことなんだが、事実こうなっている。なってしまった原因を深く考える必要なんてないんだよ」


「フフッ」と女は再び笑った。


「小野さんは優しいのね」


「なぜ?」


「私のこと、何も訊かないから」


「そうかな。話したければ話せば良いし、嫌なら黙っていれば良いだけだろ」


「そうね」と女は少し間を置いてから言った。


「それより、大阪からわけがあって東京に出て来たって、小野さんはどんな理由だったの?」


「それは・・・いつかもし機会があって、あんたに訊く気があれば話そう。今夜のあんたはずいぶん疲れている」


「そうね」と女は言い、大きなため息をついて横になった。

 私も汗臭いシャツやズボンを脱いで女の横に寝た。


「私は大前歌音。でも今は結婚しているから井上歌音」


「カノン?カタカナの名前なのか」


「歌の音って書くのよ。それでカノンって読むの」


「珍しい名前だな。でも結婚しているあんたがどうしてひとりでここにいるんだ?」


「それは・・・いつかもし機会があって、小野さんにもし訊く気があれば話すわ」


「それは素晴らしい答え方だ」


「フフッ」とカノンは笑った。ようやくこころから笑ったように見えた。


 笑うと目じりに幾筋かの皺が現れたが、とても素敵な笑顔だった。


 私の目は冴えたままで、朝まで眠れそうになかった。

 始発の時刻になったら部屋を出ようと思った。


 だが、カノンもなかなか眠れない様子だった。

 カノンがときどき発する小さなため息と、壁に掛かっている丸時計がコチコチと刻む音だけが私の耳に届いた。


 窓の外は濃紺の空が延々と広がっていた。時刻は午前四時近くになっていた。


「眠れないのか?」


「おかしいわね、疲れているはずなのに」


「ひとつだけ訊いてもいいかな?」


「いいわよ、何?」


「その・・・首筋の痣のことなんだけど、それは自分で絞めたものなのか?思いつめてそういった行為に至ったとか・・・。いや、言いたくなければいいんだよ。無理しなくていいから」


 カノンはしばらく考えているふうだった。


 そして背中を向けていた身体を私のほうに向き変えた。

 私は彼女を抱きしめた。しばらくしてその身体が小刻みに震え始めた。


「夫が首を絞めるのよ」


 そう言ってカノンは私の腕の中で「ククッ」と嗚咽し、身体を震わせて泣いた。

 震えと涙はしばらく続いた。


「どういうことなのかな?」


 カノンは私の胸で首を左右に振った。


 今夜はこれ以上訊かないでおこうと思った。私は彼女の身体をもう一度しっかりと抱きしめた。



 私は大阪に律子という守るべき女性がいる。

 二十歳ほども年齢が離れているのに私を慕ってくれている。


「一回休み」を告げて東京へ出てきたが、彼女にとっては寝耳に水の話で、すべては私の我侭だった。


 でも律子は「分かった。浩一が納得して帰って来るまで待つ」と言って、私の勝手な行動を許してくれた。


 但し「帰ってこなかったら浩一の奥さんみたいに死んでやる」と律子は宣告した。

 そして四ヶ月が経とうとしている。


 そんな経緯があるというのに、私は知り合ったばかりのカノンという女性と関係を持ち、一緒に夜明けを迎えようとしている。


 いくら行きずりの関係だからと弁解しても、それは違うんじゃないか?

 私は今夜の不誠実な行為を自責した。


 カノンは明け方五時ごろには寝入った。そよ風のように上品な寝息を立てて眠った。


 知り合ったばかりで何の素性も分からない私が隣にいるというのに、彼女の寝顔はまるで久しぶりの安心感に包まれているような穏やかな寝顔をしていた。


 なぜこうまでも安心できるのかが不思議だった。

 梅雨どきだというのに今朝も窓の外に朝陽が昇り始めた。


 私は窓のカーテンを閉めてからベッドを出た。

 ドアに鍵をかけずに帰るわけにいかないのでカノンを揺り起こした。


「鍵、私のバッグの内ポケットにあるからそれを持っていって。スペアがあるから大丈夫」


 そう言って彼女は再び目を閉じた。


 この無防備に私は苦笑いするしかなかった。


 ドアにしっかり鍵をかけて御成門駅から三田線に乗った。

 電車内はガラガラだった。


 車内をカラスが飛び交ってもおかしくないくらいに空いていた。


 つい七時間ほど前には車両が膨らむほどの混雑だったに違いない電車は、その責務を果たしてホッとしているかのように静かに、そしてスムーズに動き始めた。


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