第11話


  再びポケット瓶の女 三


 二度目のセックスは女の表情を見ながら動く余裕があった。


 ふと見ると女の首筋に紫色の線のような斑点のような痣(アザ)が浮かび上がっていることに気づいた。

 

 シャワーを浴びて化粧が落ちたことによってそれは現れたのだ。


 その斑紋は首の内出血がまだ治癒されていない状態に見えた。


 だが弾むような女の肉体から送り込まれる快感に自分を制御できず、腕の中に女の身体を包み込むようにして私は終わった。


 女もしばらく死んだように動かなかった。


「帰らないといけないんでしょ」


「行きずりの男が泊まるわけにいかないだろ」


 十数分たってようやく女は起き上がり、ベッドに座ってテーブルに置かれていたウイスキーのポケット瓶を持った。


「外にヤクザが待っているんじゃないのか?」


「ひとりだけね」


「好勝負できそうだな」


「どうでしょう?」


「どういうことなのかな?」


「何が?」


「この前は好天が腹立たしいとか、寂しいとか言ってただろ」


「また話が元に戻るのね」


「何も知らないのに、こんなふうになってしまうこともあるんだな」


「こんなふうって?」


「いや、いいんだ」


 女は「フフッ」と笑ってウイスキーのポケット瓶を口に運んだ。


「ひとつ訊いてもいいかな?」


「そうね、二回私を抱いたから本当なら二十万円だけど、あなた良い人だから半額でいいわよ」


「それはありがたい話だな。でもそんなことじゃない。あんたの首筋の痣のことなんだ。その首の痣はどうしたんだ?」


 女は黙ったままベッドから降りて白のTシャツとブルーの短パンを身につけた。


 Tシャツを着るときに形の良い乳房が揺れた。

 小ぶりだが、本当に芸術品のように素晴らしい乳房だった。


 女は一度だけ大きなため息を吐き、キッチンに立ってポットで湯を沸かし始めた。


 私はクシャクシャになったシャツを着て、投げ出した下着や靴下を身に着けてリビングのソファーに座った。


「シャワーでファンデーションが落ちてしまったのね。変なものを見られてしまったわ。でも気にしないで」


 そう言って女はコーヒーカップをガラステーブルに置いた。


「気にしないわけにいかないよ。あれは紐か何かで締めた痕にしか見えないからな」


 女の首筋の幾筋もの痣は、紐か或いは手で強く締めたものに思えた。

 女には何か巨大な事情があるに違いなかった。


 私と女とが今夜つながってしまったことにも、おそらく女の首筋の痣と同程度の巨大な理由が存在するはずだった。


 すべての行為には必ず意味がある。偶然など存在しない。


「何でもないのよ」


 そう言って女はコーヒーカップを口に持っていった。

 そしてゆっくりと味わうように飲んだ。


 コーヒーカップを持った手がしばらく口元から離れなかった。

 コーヒーを飲む仕草までが素敵だった。


 女はそれから聞こえるほどの大きなため息をついてカップをテーブルに置いた。

 そして急に噴き出すように涙を流し始めた。


 涙はすぐに頬を伝って顎に達し、雫となって絨毯の上に落ちた。私は突然の女の涙に戸惑った。


「どうしたんだ、急に」


 私は女の背中を抱いた。


 小刻みに身体を震わせながらしばらく女は泣き続けた。


「ごめんなさい、おかしいでしょ。私、いろんなことがあってね、ちょっと参っていたの」


「誰だって参ることがあるさ。俺だって参ってしまったから東京に出てきたんだ」


「そうなの・・・」


 公園での一種投げやりな感じの堂々とした態度は微塵もなく、女は絨毯に視線を落としながら黙っていた。


 何かにじっと耐えているような表情だった。


「あんたが参ってしまったことを、もし俺でよかったら遠慮なく話せばいい」


 女はしばらく何も言おうとせず、テーブルの上のコーヒーカップを見続けていた。


「過去から逃げたいのよ」


 女は視線を変えずにポツンと呟くように言った。


 まるで美しく澄んだ池の表面に小さな石を投げ込んだみたいに「過去から逃げたいのよ」と言った。


「逃げたいのよ」という部分が波紋となって広がっていくような感じがした。


「逃げたいのよ」と繰り返しその言葉は私の頭の中に広がっていった。


 私が元妻の自殺を知ったあと、自分を違う場所に早く置きたいと焦ったこころの状態と、彼女の「逃げたいのよ」という言葉が重なった。


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