第8話
詩織 二
「小さいころから父に暴力を振るわれ続けたんです。働き出したら、父だけじゃなく叔母まで私を殴るようになりました。お給料を家に入れないと殴られるから、もう我慢できなくて飛び出したんです。
でも毎回住所が分かってしまって、叔母が連れ戻しに来るんです。実家に連れ戻されてボコボコにされるんです、信じないかもしれませんけど本当なの。
妹ふたりへの見せしめのように滅茶苦茶にされるんです。そんなことがしばらく続いたから、私、精神的に不安定なんです」
詩織は以前、少し興奮気味にそう語ったことがある。
右手の中指でメガネの縁を少し上げながら、身内への悪意をむき出しにしていた。
詩織の実家は岩手県の北上市だった。
両親はともに視覚障害者で、特に父は重度の視覚障害のため詩織が物心ついたころから旅館やホテルなどのマッサージ師として働いていた。
母の障害は軽度だったが、年齢とともに視力が悪化して、最近では一人で外を歩くこともおぼつかない状態になってしまった。
そういう事情があるので、これまでずっと父方の叔母がいろいろと両親の手助けをしてくれていたらしいのだ。
「お金を入れないから殴られたの?」
「家が貧乏で、叔母がかなり面倒をみてくれたんです。私たち女ばかり三人姉妹なんですけど、まとまったお金が必要なときは叔母が助けてくれました。
だから恩返しをしないといけないんですけど、私だって家を離れる権利があると思うんです。高校卒業後は地元のスーパーに就職したのですけど、収入の大半を叔母と父に取られて、何だか馬鹿馬鹿しくなって、それで家を飛び出したの。
妹たちが心配なんですけど、私よりずっとしっかりしていて叔母に負けないくらい気が強いから、多分暴力は振るわれていないはず。私がおとなしいから、叔母は暴力のターゲットを私だけに向けたのだと思います。実家には絶対に帰りたくない」
そういうふうに詩織は以前私に説明したことがあった。
午前三時ごろになってもスープカレー屋はほとんどの席が埋まっているくらいの繁盛振りだった。
「やっぱり金曜日だね」
「えっ、何がですか?」
「金曜日だから、こんな時間でもお客さんがたくさんいるねってことだよ」
「ああ、そういう意味だったんですね。本当にそうですね」
詩織は再び片側のメガネの縁を指で持ち上げながら店内を見渡して言った。
私たちは店を出て、ゲストハウスに戻る道を遠回りして歩いた。
「やっぱり小野さんに少し愚痴を聞いてもらおうかな」
詩織は帰り道にようやく今抱えている悩みを打ち明けようとした。
「家を飛び出して東京に出てきて、最初は三鷹市というところに住んだんです。仕事は病院の医療事務補助でした。派遣会社が社会保険に加入すると言うので三鷹市に住民登録をしたら、二週間ほど経って叔母がいきなり訪ねて来ました。私、もう恐ろしくて・・・」
「それでどうしたの?」
「翌日、荷物をすべて実家に送らされて、不動産屋さんに叔母が連絡して、すぐに退去の手続きをされてしまったんです。そういうことにはすごく機転が利いて、することが強引で早いの。
髪の毛こそ引っ張り回されなかったけど、そんな感じで実家に連れ戻されて、地元の飲食店で働かされました。言うことを聞かないと恐ろしいんです」
「酷い叔母さんだね」
「三度目に逃げ出したときから住所を実家に置いたままにしています。派遣会社にはバイト扱いで、社会保険の加入なしでお願いしているから私の居所は分からないの。
でも、私は身体が弱くて、やっぱり国民保険に入ろうと思うんですけど、手続きをするには住民登録が必要でしょ。
北上の住所で申請しても保険証をここには送ってくれないから、実家に受け取りに戻らないといけないんです。そうなると絶対に帰してくれないからどうにもできないんです」
「国民年金と保険の手続きは必要だから、いつまでも今の状態じゃ困るね」
「私、ちょっと病気なんです。前は心療内科に通っていたんですけど、今は保険がないから診てもらっていないの」
私は正直言って彼女がこころの病を患っているふうには見えなかった。
親の暴力から逃げているとは聞いていたが、女性たちの中では最も普通に思っていただけに、詩織から打ち明けられた話の内容が意外だった。
「なんていう病気なの?」
「それは・・・分からないです」
「詩織ちゃん、社会保険は手続きしないといけないよ。住民登録が必要だけど、叔母さんが追いかけてくるなら架空の住所に登録して、そこで手続きすればいい」
「どういうことですか?」
「つまり、いろいろ事情があって住民登録ができない人たちに代わって、俺の知り合いが代行登録できる住所を持っているんだ。そこで手続きして、役所などからの郵便物はその住所に届くから、彼が定期的に確認して郵便物を実際住んでいるところへ転送してくれる」
「では住民登録をどこでするんですか?」
「大阪だよ。ちゃんとマンション名と部屋番号もある。ひとつの部屋番号に何十人も住所登録しているんだけど、役所はいちいち調べないから問題はないんだ。
そこに登録して、国民保険や年金の登録をするんだ。役所から証書や書類が届けば、俺の知り合いがここに転送してくれる。
万が一、君の叔母さんが大阪のその場所を訪ねて行ったとしても部屋には誰もいない。そこは俺の友人が建物ごと借りているから、叔母さんが彼に問い合わせをしても知らないと言ってくれる。
手数料として毎月少しお金が必要だけど、多額の負債や夫などの暴力や何らかの事情で逃げていて、住民登録が出来ないひとたちが利用している。もちろん正業じゃなく裏の世界なんだけど」
「裏・・・ですか?」
「まあ、そんなこともできるということだよ。ゆっくり考えればいい」
「小野さんって、いったいどういう人なんですか?」
詩織は不思議そうな表情で訊いてきた。
「どうしようもないクソ野郎だよ」
私たちは再び多摩川の土手を歩いた。
河川敷にはさっきの若者グループの姿はなかった。暗闇の向こうに多摩川の流れが薄っすらと見えた。
河口方面を見ると空が少しだけ明るくなってきていた。あと一時間もしないうちに夜が明ける。
沈んだ夕陽は翌日必ず夜明けとともに朝陽となって昇る。
ゲストハウスの彼女たちの夜明けはいつ訪れるのだろう。
でも物事に必ず終わりがあるように、今の暮らしもいずれ終わる日が来るに違いない。
「小野さん、今夜はありがとう」
「いろいろ打ち明けてくれて嬉しいよ。詩織ちゃんはもっとゆっくり寝ないといけないよ」
ゲストハウスは寝静まっていた。
大きな悩みを抱えて生きてきた詩織を、私は一瞬抱きしめてやりたくなった。
でも彼女のような生真面目な女性に対してそういう行為には踏み切れなかった。
「また散歩したくなったらいつでも付き合うよ」
そう言って私は部屋に戻った。
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