第7話


      詩織 一


 ゲストハウスには私以外に一般的にルームメイトと呼ぶ四人の女性が住んでいた。


 香織と沙織と詩織という、まるで何かに仕組まれたような名前の女性たちと、もうひとり綾香という女の子がいた。


 ルームメイトのなかでただひとりだけメガネをかけた詩織は、私が入居以来これまで何度か深夜などに部屋をノックするのだった。


 私がポケット瓶の女と二度目に遭遇した夜、シャワーを浴びて寝ようとしているところにドアがノックされた。


「どうしたの?」


「暑いし眠れないから、もし嫌でなければ少し散歩しませんか」


 詩織は囁くような声で言った。


 綾香はまだ帰っていないようだったが、香織は明日も仕事なので寝ているようだったし、沙織の部屋の灯りも消えていた。


「いいよ、ちょっと待って」


 私たちはゲストハウスを出て、すぐ近くの多摩川の土手を散歩した。


 金曜日の深夜、河川敷では何組かの若者グループが打ち上げ花火を楽しんでいた。


 夏は始まったばかりで梅雨も明けていないというのに、若者たちのグループはときどき喚声を上げながら星空に向かって花火を飛ばしていた。


「ヒュー」と笛のような短い音を発したあと「パン!」と花火が夜空に弾けた。


 これから日に日に暑くなってお盆が近づいてくると、あちこちで盛大な花火大会が行われる。

 そんな打ち上げ花火とは比較にならない寂しい弾け方だった。


「ヒュールルルルル・・・パン!」


 花火とは堂々と言えない花火。


 でも若者グループが次々に打ち上げる花火は「ヒュールルルルル・・・パン!」という精一杯の音だけで寝苦しい夏の夜を少しだけ和ませていた。


「ようやく夏がスタートした感じだね」


「えっ?」


「梅雨明け宣言がまだだけど、全然雨が降らないからね。もう夏が梅雨明けを待てなくなったんだよ」


「あっ、そういう意味だったんですね。そうですね」


 詩織は右手で黒縁メガネの片方の縁を持ちながら同意した。


 私は彼女が何か相談したいことがあるのだろうと思って言葉を待っていた。

 でも詩織は私と肩を並べてゆっくりと歩くだけで、何も話しかけてはこなかった。


「詩織ちゃん、何か俺に相談があったんじゃなかったの?」


「えっ、どうしてですか?」


「夜中に急に散歩しませんかって声をかけられたら、何かあったのかなって思うよ」


「いえ、特に何もないですよ。外で涼みたかったんですけど、私一人じゃ怖いから、小野さんなら安心だし・・・。ごめんなさい、いきなり誘って」


「いや、俺は全然かまわないんだよ、明日も明後日も休みだから。でも俺だって決して安心な男じゃないよ。ときには狼や猛獣にだってなるんだから」


「ええっ?」


 詩織はジョークを分からず黒縁メガネのレンズの奥で目を白黒させていた。


「ジョークが分からないのね」と、数時間前に私に言ったポケット瓶の女のことを一瞬思い出した。


「ジョークだって、詩織ちゃん」と私は言った。


「そうですよね」


 詩織がホッとした表情に変わった。


 私たちは土手を降りて駅の方向へ歩き、明け方まで営業しているスープカレーが美味しい店に入った。


 詩織はあまりお腹が空いていないというので野菜スープカレーとポテトフライを注文して二人で分けた。


 私はビールを、詩織はアイスコーヒーを飲みながらいろいろと話をした。


「実は腹ペコなんだ」


「何も食べていないんですか?」


「仕事帰りに天ぷらを肴に飲んだんだけど、それだけだからね」


「毎日食事はどうしているんですか?小野さんがキッチンで何か料理しているところを見たことがないから」


「料理なんて面倒だからやろうとも思わないよ」

「外食ですか?」


「昼は社員食堂というのがあってね、食事らしい食事をするよ。それ以外は外食も滅多にしないし、部屋で菓子パンを食べる程度かな。でも金曜日だけは酒を飲みながらつまみのような物を食べるよ」


「そんなんじゃだめですよ。ちゃんと栄養のあるものを食べないと。今度私が作ったものを小野さんの分だけ取っておきますから」


 詩織は母親みたいなことを言った。


 悪い気はしなかったが、そういうわけにはいかない。


「いいよ、詩織ちゃん。俺はあまり食べるものに関心がないんだ。それより暑いから眠れないって言ってたけど、エアコンをつければいいのに。家賃は共益費込みなんだから」


「そうなんですけど、本当は暑さじゃないの。なかなか寝付けないんです」


「不眠症なの?」


「小さいころからそうなんです。眠りも浅いし、おかしいんです」


「でも睡眠薬なんか飲んじゃだめだよ」


「大丈夫、そこまで眠れないわけじゃないから。眠りが浅くて、長く睡眠が取れないだけなんです」


 私は入居してこの四ヶ月ほど、詩織や他のルームメイトたちと意識的に仲良くしようと気を遣ってきたわけではないが、なんとなくうまくいっている気がしていた。


 彼女たちはときどき自分のこれまでの人生のひと欠片ずつを私に語ってくれた。


 私がリビングでひとりテレビを見ているとき、沙織が突然部屋から出てきて、「別れたダンナってさあ、すっごい暴力を振るうんだよ。私が先に寝てただけで、仕事から帰ってきたらいきなり蹴るんだよ。おかしくない?」などと、何の脈絡もなくいきなり自分の過去を語り始めたり、夜中にコツコツとドアを叩く音に気づいて開けてみると詩織が「駅前のラーメン、行きませんか?」と誘って来たり、そんなとき彼女たちは少しずつ、本当にひと欠片ずつ過去の辛かった思いを私に打ち明けた。


 めったに自身のことを語らない香織でさえ、私が仕事から帰るとリビングでひとり酒を飲んでいたことがあり、「小野さんだって大阪で奥さんに酷いことをしてきたんでしょ。私には分かる」と、何度か絡んできたことがあった。


 いつもあっけらかんとしている彼女たちだが、このゲストハウスにたどり着くまでの経緯を語るときは、普段は見せない暗い陰と苦悩の表情が窺えた。


 断片的な話ではあっても、彼女たちから聞いた話を繋ぎ合わせてみると、香織や沙織や詩織がなぜこんなシェアハウスで暮らすに至ったかが分かった。


 香織は夫の暴力と浮気が原因で離婚してここに移って来たし、沙織は夫から繰り返し暴力を振るわれ、挙句は追い出された経緯があり、詩織は実家から逃げるように飛び出し、あちこちをさ迷い続けた挙句ここにたどり着いていた。

 いずれも暴力からの逃避であった。


 彼女たちがいきなり愚痴や悩みを吐き出したとき、私はそれらに耳を傾けて、無理のない適切な助言や相槌を打ってきたから、彼女たちとうまくいっているのではないかと思っていた。


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