第5話


     大阪を離れた訳 三



 葬儀は連絡を受けた翌日、生駒市内にある元妻の実家近くの会館で行われた。


 奈良県警の要職を務めた人物の娘のものとは思えないほどのひっそりとした葬儀だった。


 受付で元妻の妹と挨拶を交わした。


 義妹は私の顔を見たとたんに下を向き、そして涙を流した。


 涙の種類は分からなかったが、俯いた彼女の表情には無念さが表れていた。


「お義兄さんが姉と離婚しなかったら、こんなことにはならなかった」


 彼女はそう言いたかったのかも知れない。


 私は何も言葉が出なかった。


 元妻の両親にも葬儀の終わりのあたりで挨拶を交わした。

 そこで父は死因について語った。


「娘は恋愛で悩んでいたようです。子供を産む年齢の限りというものもありますから、ずいぶんと焦っていたのでしょう。もう四十歳になりますからな。

 同居していた男性と結婚するという話を大分前から聞いていたのですが、実はその男性には奥さんがいたのです。正式に別れていないのに娘との結婚を仄めかしたのですな。

 娘はずっと知らなかったのですよ。でも昨年の暮れから年始にかけて、その男性は奥さんのもとに帰ってしまったのです。子供さんもひとりいたということです。

 ちょっと私らには理解し難いことですがね。まあともかく、娘は信じていたようです。それが裏切られたものですから、思いつめてしまったのでしょう。部屋で首を吊ってしまいました」


 父は私にそう伝えたあとハンカチで目を覆った。


 私は自然と噴き出す涙を止められなかった。

 周囲の人の目など関係なく、涙を拭うことさえ忘れて泣いた。


 どうしてこんなことになってしまったのだ。

 私が大切にしてやりさえすれば彼女の人生はこんな結末にはならなかったはずだ。


 彼女を騙した男への憎しみよりも、責任の大部分は私にあると思った。

 私は裁かれるべき人間に値した。



 律子にこの話を伝えたのは冬の厳しい寒さが続く一月下旬の土曜日の夜のことだった。


「律ちゃん、俺たち付き合ってどれくらいになるかな?」


「どうしたの、急に」


 土曜日だけ私の部屋に泊まって帰ることを律子の両親は許していた。

 ふたりの関係を認めてくれている証だった。


「あまりに穏やかで、俺たち口喧嘩ひとつしないし、本当に仲が良いんだなって思ったからね」


「そりゃそうだよ、律子が浩一に合わせているんだから、喧嘩なんかするはずないよ」


「ええっ?」


「浩一と付き合い始めたのは、兄のことでいろいろ頑張ってくれたあとだから、二年半ほど経つよ。それがどうかしたの?」


 律子は不思議そうな顔をして言った。 


 彼女は大阪市内の温水器会社で働き、淀川区にある実家で両親と兄と暮らしていた。


 私とは平日の夜や週末にデートを繰り返していた。


 ほとんど口論もない穏やかな関係が続いていて、私が法律関係の資格を得たら結婚しようと約束していた。


「律ちゃん、俺は君のことをこころから愛しているよ。君はスタイルも良いし綺麗だし、一緒に歩いていても、俺のような中年男と君のような素敵な女性とは全く釣り合わないと、きっと誰もが思っているはずだよ」


「何を言ってるのよ、急に。何かあったの?」


「俺は君と絶対に一緒になりたいと思っているよ。でもね、いろいろあってね、ちょっと一回休みを取りたいんだ。律ちゃんには何の問題もない。俺自身のことなんだ」


 律子は食後のコーヒーを淹れていたところだった。


 私の言葉にすぐに反応せずにコーヒーを淹れ終わって、テーブルにふたつのコーヒーカップを置いてから言った。


「理由をはっきり説明しなさい」と。


 二十歳も年上の私に偉そうに言った。でもそれは当然の要求だった。


 私は年明け早々に元妻が自殺してしまったことや、その背景について出来るだけ分かりやすく説明した。


 結婚生活を送った大阪を離れ、しばらくひとりになって元妻への罪を償いたい意思を伝えた。


 律子はコーヒーカップを両手で持って少しずつ口に流し込みながら黙って話を聞いていた。

 そして私が話を終えたあと、たったひと言だけ意見した。


「嫌だ」と。


「嫌だ。律子は浩一と別れないからね。浩一が私を裏切ったら、その奥さんみたいに死んでやる」


 律子は目に涙をいっぱい溜めて言った。


「だから律ちゃん、俺は君以外に誰も考えられないよ。さっき言ったようにいつか必ず一緒になるつもりなんだ。でもしばらくひとりになって、いろんなことを考えたいんだ。言ってることは我侭だとは分かってる。でもそうしたいんだ」


「律子と一緒でもいろいろ考えられるじゃない。私、邪魔をしないから」


「そういうことじゃないんだよ、律ちゃん」


 私はしばらくひとりになりたい。だが律子は私の気持ちを理解しなかった。


 私が言っていることは我侭の極みなのだから、無理もなかった。


 絶対に一緒になろうと思っていると言いながら、しばらくひとりになりたいなんて、誰が理解するだろう。


 でも元妻の自殺という、私にとっては後遺症となってこの先ずっと引きずっていきそうな事件に本当に参っていたのだ。


 たったひとりになって裁きを受けるべきだと考えていた。


 ひとりひとりの長い人生のドラマには、いったんコマーシャルタイムに入って整理することも必要なのだ。


 それが続編のためのものとなるのか、或いは別のドラマへのものとなるのかは別として、そういった言わば幕の休憩が必要だと私は考えていた。


 私は律子に内緒で東京での仕事と住居を決めた。


 東京を出る日に彼女宛に手紙を投函した。


 必ず帰ってくるから、無期限の一回休みにして欲しい、未定延期だと書いた。


 でも、そんなに長くはかからないことや、電話もメールもいつでも連絡は可能だから心配しないようにとも書き添えた。


 数日後に届いた彼女からのメールには「分かった」とだけ書かれていた。


 大阪を出て四ヶ月が経った。


 律子は二週間に一度程度メールを送ってきた。


「私のことを忘れたら絶対に許さない」と毎回書かれていた。


「心配無用だ」と私は仕事中以外にはすぐ返信した。


 電話も数回かかってきた。ときどき電話の向こうで律子は泣いた。


「泣くなよ、律ちゃん。待っていてくれればいいんだよ。何も心配することはないからね。我侭な俺を一回だけ許してくれよ」


 私はそのたびに彼女に詫びた。


 私が大阪を離れた訳は、おそらく誰も理解できないような自分自身のこころの問題だったのだ。



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