第4話


      大阪を離れた訳 二



 律子は私が行きつけにしていた小さな居酒屋で学生時代にバイトをしていた。

 卒業して就職後もときどきその店にひとりで飲みに来ていた。


 律子と親しくなったきっかけは、彼女が当時抱えていた家族の問題を私に相談してきたことからだった。


 まだ二十歳をほんの少し過ぎた彼女に圧し掛かる問題としては、それはあまりに巨大すぎた。

 律子の兄が発作的に電車に飛び込んでしまったのだ。


 彼女の兄は大学院を卒業後、大阪府下に本社がある大手精密機器メーカーに研究員として勤めた。


 だが研究室勤務のあと、現場の経験をさせるという会社の意向から半年間の予定で奈良県内の工場勤務を命ぜられた。


 学問ばかりしてきた兄にとって現場での三交代勤務は肉体的にも過酷で、本来の物理工学研究とは無関係な仕事に従事させられた精神的苦痛とも重なって、半年が経ったころには心身ともに極限状態に置かれていた。


 会社側はそんな兄の状態に気づくこともなく、年度替りの方針転換でさらに半年の現場勤務延長を命じた。


 落胆した律子の兄は、夜勤明けの帰寮途中に駅のホームから到着する電車に飛び込んだ。


 不幸中の幸いとでも言えるのか、各駅停車の電車だったので奇跡的に兄は一命を取りとめ、四肢五官にも異常はなかった。


 ただ、脊椎をやられたために下半身が不随となり車椅子生活を余儀なくされてしまった。


 会社側は兄の行為の原因は個人の資質によるものであり、会社としての責任はないと表明した。


 そればかりか、労災の扱いもせずに兄を即刻解雇し、わずかな見舞金で問題を濁そうとした。


 律子の家は朴訥な現業員の家庭だったので、会社の処置に疑問を抱きながらも何も要求出来ないでいた。


 律子から相談を受けた私は兄の会社に正面から交渉を始め、あまりにも酷い扱いに対して非人道的あり、企業としてどうかと疑問を投げかけ示談を持ち込んだ。


 会社としても一社員のことで揉めたくないであろう点を私はついた。


 何度も会社に足を運び交渉し拒否し、そして三ヵ月後に律子の家族の了解を得て示談金を勝ち得た。


 街金業を営む関係上の付き合いがある右翼団体の幹部などに相談すればもっと多額の示談金を引き出せたかもしれないが、会社側の気が変わらないうちに律子の家族が納得する金額で手を打った。


 その一連の出来事があったのが、二年前の春から秋のことだった。

 今思い起こすととても懐かしい気持ちに包まれる。


 私はそのことをきっかけとして律子と恋愛関係に陥った。


 当時、四十歳の私と二十一歳の律子の年齢差に対して、彼女の家族は何も意見しなかった。


 私は出来るだけ早く街金を廃業し、資格を取って法律関係の事務所を開業しようと考えていた。

 その目途がついたら律子と一緒になろうと思っていた。


 自分勝手で、無茶なことばかりしてきた私の人生だったが、律子となら再スタート出来ると思っていたのだ。


 だがそんな矢先、ある知らせが私に届いた。別れた妻の自殺だった。


 元妻は私と離婚後、奈良県生駒市にある実家にいったんは戻っていた。


 私は別れたあとも元妻を忘れられず、何度も彼女の実家に電話をかけようとしたが、あと一番号をプッシュすればつながるところで踏み切れず、毎回思いとどまってしまうのだった。


 そしてやがては彼女への思いも街金業の日々に忙殺され、心の奥に格納されてしまった。


 別れて一年余りが経ったある日、元妻から電話がかかってきた。

 昔彼女とよく立ち寄ったバーのマスターが突然亡くなったと知らせてきたのだ。


 マスターの姉の家に私と一緒に弔問に行きたいと彼女は望み、私は躊躇なくそれを受け入れ、元妻と再会した。


 だがそのとき、彼女は三歳年上の男性と大阪市内で同棲していると打ち明けた。


 私はショックのあまりに混乱し、長時間彼女と一緒にいるのが辛くなってしまった。


 でも過去に苦悩させた罰としてその事実を受け止め、彼女の幸せを祈って別れた。

 それが元妻と最後に会った日のことだった。


 元妻の死を連絡してきたのは彼女の父だった。


 二千三年に年が替わり、まだ正月気分が抜けない一月十日過ぎのことだった。

 奈良県警を定年退職していた元妻の父は意外に落ち着いた声だった。


「娘の手帳にこの電話番号があったので連絡しました。お元気ですかな?」


 最初、彼がなぜ突然連絡してきたのか分からなかった。


 私は「はい、何とかやっています」と何の疑問も持たずに返答をした。だがすぐに私は恐れに似た緊張感に襲われた。


 彼が連絡をしてくるということは、元妻の身に何かあったこと以外に考えられなかった。


「娘が死にました」


 彼はポツンと言った。


 「娘が」のあと三秒ほど間をおいて「死にました」と絶望的な声で言った。

 私は絶句したまま何も言えなかった。思考が停止した。


「葬式に出てやってもらえませんか。どうか、娘にお別れを言ってやってください」


 彼はゆっくりと言った。


 私に対する恨み辛みを一切言葉にも口調にも表わさずに、彼はそう言った。


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