第3話
大阪を離れた訳 一
私は大阪で長年にわたって街金業を営んでいた。
ネズミの鼻先ほどの狭い事務所で、簡単な記帳と電話番を手伝ってくれる女の子がひとりだけの、吹けば飛ぶようなちっぽけな街金だった。
銀行に親切にしてもらえない零細企業や町工場が私の客だったが、それなりに需要があって結局十年も営んでいた。
振り返ってみると、不思議なことの数々が思い起こされるが、当時は金儲けをする分だけ妻との関係が冷え続けていったように思う。
私は結婚して数年後に街金業界に入った。それからの私は家庭を疎かにしてしまった。
妻との間に子供がいなかったので家庭とは呼べなかったかもしれないが、結婚したころの質素な暮らしから一変して、街金業界に入ってからの私は、こころも暮らしも傲慢になってしまった。
以前と変わってしまったことを妻は何度も指摘した。
「あなたは前の職場では、たまの接待さえ嫌だと言っていたのに、今の仕事をするようになってから、なぜそんなに毎晩浴びるようにお酒を飲むの?言葉も態度も傲慢になって、まるで人が変わったみたいよ。いったいどうしたの?」
妻は口癖のように不満をぶつけてきた。
「お金のやりくりをしているときのほうが幸せだった。私、一人暮らしをしているみたいよ。私たち夫婦じゃないの?」
そう妻は嘆いた。
ファイナンス会社に勤めていたころよりもはるかに多い収入を得るようになって、生活自体は豊かになった。車も買い替えたし、家具や家電も贅沢なものを揃えた。何の疑問を持つこともなく、毎夜仕事が終わると歓楽街で散財していた。
だが妻との関係は外見の豊かさに反して次第に朽ちていくのが実感として分かっていた。ふたりがつながっている「こころの橋」というものが存在したとすれば、それは日に日に老朽化し、ついにはひび割れて崩落寸前になっていた。
私は金貸し連中が「命より大事な金」と言って憚らない金を扱う仕事で神経をすり減らし、その疲れを酒と女に委ねていた。
毎夜、疲弊した神経を麻痺させなければ、翌日の仕事に対する闘争心が保てなくなっていた。私は弱い人間だった。そんな生活がよくないことは分かっていたが、どう仕様も出来ずに日々が過ぎた。
「私、あなたとは終わりにしたい。昔のあなたはもっと純粋だった。どうしてそんなにお金に執着するの?あなたは私の前でちっとも笑わないでしょ。あなたが笑わないから私も同じようになってしまうの。もう何年もこころから笑ったことがないのよ。こんな生活のどこが楽しいの?」
そう言って妻は泣きながら離婚を望んだ。
私は別れることに躊躇した。それは妻を愛していたからだった。
だが、別れを請われてからも変わろうとしなかった私を彼女は諦め切って、やがては何も言わなくなった。
普段の会話もほとんどなくなり、ふたりの「こころの橋」は音もなく崩れ落ちてしまった。離婚という法的手続きを踏んだのが、私が三十七歳のときだった。
もう六年も前になる。子供をもうけないままゲームオーバーとなったことだけが救いだった。
「君には感謝しているんだ。悪かったと思っている」
妻と最後の日、ふたりが暮らした部屋の玄関で噴き出す涙を拭おうともせず「ごめんなさい」とだけ何度も彼女は言った。肌を突き刺すような寒さが身にしみる二月の夜のことだった。
「ごめんなさいなんて言わないでくれ。悪かったのは俺のほうなんだから」
私は妻を愛していた。彼女の考えることや行いに疑問を感じることなど一度もなかった。彼女の一挙手一投足を私は愛していたのだ。
「こんな晩御飯でごめんなさいね。少しずつお金を貯めてあなたと子供と安心して暮らせる家が欲しいの。子供が産まれるまでしかお金って貯まらないのよ。だから我慢してね」
妻はたびたび詫びるように言った。
大手銀行に勤めていた妻とは、交際期間中は会社帰りによく酒を飲んだ。彼女も酒が好きで、ふたりで居酒屋やバーをよくハシゴしたものだった。
彼女は結婚後も週に三日ほど銀行のロビー係のパートで働いた。私と妻は独身時代ほどではないにしても、ときどきふたりで馴染みのバーなどに足を運んだ。
だが、彼女が貯蓄に興味を持ち始めてからは一緒に飲みに行くこともなくなった。貯蓄のために、たとえ夕食のテーブルに一汁一菜しか出されなかったとしても、私は一度も不満を感じたことなどなかった。
平凡なサラリーマン時代の私はいつも薄い財布を気にしながら働いていたが、こころが綺麗だったような気がする。
街金業界に入ってからの私は、客やスポンサーとの駆け引きでこころは泥のように濁り、身体はアルコールと贅沢な脂肪にまみれた。
結局、ふたりの間に子供ができないまま離婚後、私は街金業に携わる日々のこころの疲労を酒に委ねるしかなかった。
ひとり暮らしのマンションと、小さな事務所との往復の日々が続いた。
事務を手伝ってもらっていた女の子が帰ってしまうと、私はたったひとりの事務所で絶望的な孤独感に襲われた。
私は寂しさを紛らわせるために毎夜のように飲み歩き、そして誰も待っていない冷たい部屋に帰った。こころの疲弊と生活の荒廃が続いた。
妻を幸せに出来なかった私は裁かれるべきだと、素直に孤独を受け入れた。
そんな状態にあった私のことを気にしてくれるひとりの女性がいた。それが律子だった。
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