第2話


        ポケット瓶の女 二


 ホットピンクの鮮やかなポロシャツを着て、ウイスキーのポケット瓶をあおっていた女を公園で見かけてから一週間が経った。


 私は汐留の巨大ビルの中にある大手金融会社の督促スタッフとして働いていた。もともと長年金融関係に従事していたこともあって、大阪にいながら派遣会社を通じて東京での仕事を決めていた。


 仕事は極めて簡単だった。私がこれまで従事したものに比べると子供騙しみたいなものだった。


 支払いが遅れている顧客に対して、礼節を持って「早く金を払え」と丁寧な言葉で催促し、その応対内容を端末に記録として残すだけのものだ。


 こんな仕事でもそれなりの収入を得ることが出来る世の中というものが、ある意味で子供騙しみたいな存在だと私は思った。


 私は毎週金曜日だけ、仕事が終わってから自分が決めた量のアルコールを体内に入れることにしていた。


 月曜日から金曜日までの五日間、体内に滲み湧いた下卑た穢れをアルコールで消毒して帰るのだ。それは私にとってひとつの儀式のようなものだった。


 ときどき職場のスタッフに誘われることもあったが、金曜日の儀式のために百パーセント断っていた。そんな私をやがては誰も誘わなくなった。


 私には大阪に律子という二十歳も年下の恋人がいたが、ある事情からふたりの関係に「一回休み」を告げて大阪を出た。四ヶ月ほど前のことである。


 律子と何の妨げもなく結婚へ突き進んで行くことが憚れる理由が突如起こったため、大阪を離れて自分を違う環境に置いた。

 結婚の約束を交わした彼女の存在があるにもかかわらず、自分の我侭な理由で大阪を離れた。


 そんな経緯があるのに、職場仲間たちと酒を飲みながら、子供騙しのような仕事や疲労で膨らんだ東京への不満にクダを巻くことは憚られた。

 そのような行為は、大阪で私を待っている律子に対して不誠実だと思っていた。


 ただ、金曜日だけは特別なのだ。


 一週間で溜まったこころの中の穢れをクリーンな状態に戻すための、わずかばかりの時間を大切にしていた。私のこころは常に消毒が必要なほど脆弱だった。


 ストレスと呼ぶ穢れが消し去られるとともに、同じ量のやりきれなさが私のこころを襲った。今度は大阪での数々の辛い出来事がよみがえってくるのだ。


 その感情をもアルコールの力によって麻痺させなければ、私は救われなかった。


 そして、酔うと私は律子へ「我侭を許してくれ。もう少し待って欲しい」とメールを送った。


 律子からは毎回、「私を裏切ったらただじゃすまない」とだけ返信が届いた。


 東京に出てきて四ヶ月があっという間だった。まだまだ帰るわけにはいかない。私は裁かれるべき男であり、まだ罪は償っていない。


 私はいつものように三合の酒を飲み干してから店を出て、いつもと同じ道を歩いて御成門駅に向かった。梅雨の季節のど真ん中だというのに、夜空の星は今夜も人々の眠りを微かな光で見守っていた。


 先週の金曜日に無意識に斜めに横切った小さな公園が見えて来た。普段は決して立ち入らない公園だが、この前は不注意にも横切ってしまったのだ。


 今夜も公園は薄明かりの常夜灯に照らされているだけで、その存在を世に知らせる努力を怠っていた。


 公園を大切にしない国に決して平和はやって来ないのと同様に、この地区の住民たちはきっとあまり幸せではないはずだ。

 公園は平和の象徴なのだから粗末な扱いをしてはいけないのだ。


 公園が目の前に近づいてくると、この前の女のことが思い起こされた。ポケット瓶を持って完璧なウイスキーの飲み方をする女である。


 公園に入った。時刻は午後十時を少し過ぎていた。この前の金曜日の夜とほぼ同じ時刻だった。そしてあの女がいた。


 当然であるかのように女はこの前と同じ低い鉄棒に腰を凭れかけるようにして、この前と同様にホットピンクのポロシャツを着て、そしてウイスキーのポケット瓶を持っていた。


 まるで一週間前のこの時刻に時空を後戻りした感覚になった。


 私は近づいた。女も私の姿を捉えるとジッと目を離さずこちらを見ていた。


「こんばんは。今夜もまたポケット瓶ですか?」


「あら、あなたはこの前の」


「毎晩ここで涼んでいるの?」


「毎晩じゃないわ。ときどきね、夜空を見ながら飲みたいときはここに来るのよ。でも偶然ね」


「偶然なのかな?」


「偶然じゃなかったら何?」


「偶然の反意語は必然だな」


「フフッ」


 私は女の横に立った。


 鉄棒に腰を凭れかけて女の横顔を見た。女は細い指先に持ったポケット瓶を口に運び、そしてゆっくりと飲んだ。


 こんなロクでもない浮世での今日一日の疲れを一気に飲み干したかのように見えた。そしてやや少し顔を上げて、遥か彼方の夜空の星たちに向かって「こんばんは」と呟いているように思えた。


 ポケット瓶の飲み方、唇の形、指や顔の動き、そのすべてが最高だった。私はこの前と同様にその一連の動作に見とれ、こころの中の銅鑼がガーンと鳴り響いた。


「どうしたの?私の顔をジッと見て」


 女が私のほうを見て言った。


「いや、あんたの動作が見事だから」


「変な人ね」


 今夜の女の表情は曇ってはいなかった。でも何か投げやりな気配を身体全体から放っていた。


 ホットピンクの半袖のポロシャツから長く伸びた女の手がしなやかに可憐に動いた。そしてまた手に持っていたポケット瓶を口元に運んだ。


「あなたもお酒を飲んでいるのね」


「ほんの少しだけだよ」


「梅雨なのに馬鹿みたいに良い天気ね。腹が立つ」


「なぜ天気が良いのに腹が立つ?」


「土砂降りの雨が降ればいいのよ。人を馬鹿にしたような良い天気が続いているから腹が立つの」


「俺は雨が嫌いだな」


 女は何も答えなかった。


「どうしたんです?」


「何でもないわ。あなたの言うとおりよ。でも雨が降らないと干乾びてしまうでしょ。梅雨の季節に良い天気が続くと腹が立つのよ」


「自然に腹を立てても仕方がない」


「そうね、本当にあなたの言うとおり。でもあなたは公園がどうのこうのっておかしなことをこの前言っていたのに、こんなジョークが分からないのね」


 少し間隔を置いて女は異議を申し立てた。


 そして両方の手を後ろ手にして鉄棒を持ち、夜空に向かって大きなため息をついた。その横顔には猛烈な倦怠感が漂っていた。


 まるで人生におけるあらゆる責務を終えて、もはやすることが何も残っていないかのような気配が浮かんでいた。


「次にもし会えたら、そのときまでにはジョークがうまく言えるようになっておくよ」


「期待しているわ」


 そう言って女は立ち去った。数秒遅れて公園を出たが、この前と同様に女の姿はなかった。


 御成門駅に到着した電車は、今日一日のストレスの分だけ身体が膨らんだサラリーマンと逞しく働く女性たちで、当然のように満員だった。


 膨張した電車は駅に到着するたびにため息をつき、出発する際には毎回気合を入れるような軋む音を発していた。



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