歌音(カノン)

藤井弘司

第1話


     ポケット瓶の女 一



 その女を見たのは偶然などではない。断言できる。


 女は私を堂々と待っていたに違いなく、私は強烈な引き潮に足を引きずり込まれるように近づいたのだ。


 私は仕事を終えてから新橋駅近くの小さな立ち飲み屋でほんの気休めだけ飲み、御成門駅に向かって歩いていた。


 六月も半ばを過ぎたというのに梅雨らしい雨が一向に降らず、梅雨入り宣言があったのかさえ思い出せない初夏の気候だった。


 濃紺の夜空には金銀の輝く星座が踊り、眠りに入ろうとする人々を優しく照らしていた。


 高層ビルが建ち並ぶ表通りから一歩裏通りへ入ると、うら寂しい雑居ビルと低層マンションとが慰め合っているかのように寄り添って建っていた。


 私はその隙間を抜けて小さな公園を斜めに横切ろうとした。

 いつもはこの公園に足を踏み入れることはない。

 あまりの粗末な公園に嫌悪しているからだ。


 だが今夜の私は、自分の意思に反して公園に入ってしまった。

 後悔してもあとの祭りだった。


 猫の額ほどのちっぽけな公園。


 狭い砂場と申し訳程度のすべり台と鉄棒、ベンチが無造作にいくつか置かれているだけの、存在を示す意欲すら感じさせない寂しい公園。


 肩身が狭そうな雰囲気を漂わせる公園。


 こんな公園をなぜこのような場所に設けたのか、公園に責任があるわけではないが、私には全く理解できなかった。


 とてもじゃないが、こんな公園には入りたくなかったのだ。


 そんな粗末な公園に無意識に足を踏み入れると、ひとりの女が低い鉄棒に腰を凭れかけるようにして夜空を見つめていた。


 そしてウイスキーのポケット瓶をあおっていたのだ。


 女はホットピンクの鮮やかなポロシャツを身に着けていた。

 その派手な色彩に反して、女の振る舞いは落ち着いていた。


 堂々とした仕草でポケット瓶をあおり、フーと大きなため息を吐いて夜空に顔を向けた。


 おぼろげな常夜灯だけに照らされた公園で、女のホットピンクのシャツの色と、ときどき夜空を仰ぎ見る顔が浮き上がって見えた。


 女の背はそれほど高くはなかったが、まるでモデルのような見事なスタイルをしていた。


 私は引き込まれるように女に近づいた。そして通り過ぎようとした。


 だが、女は私の目をじっと捕らえたまま視線を離そうとしなかった。


 その目には鋭い視線とは正反対の種類のものが映っていた。


 女は今し方まで泣いていたに違いなく、頬に涙の痕が微かに見えた。


 私は無意識のうちに足を止めた。


「どうしたんです?」


「どうもしないわ。部屋が暑いから外でウイスキーを飲んでるだけ」


「エアコンをつければいい」


「エアコンは逆に冷えすぎるのよ」


「今日はまだ湿気が少ないから暑さもマシでしょう」


「そうね」


「それじゃ、おやすみなさい。こんな寂しい公園で、女性がひとりでいるのは物騒だから気をつけて」


「ウイスキーでも飲む?」


「いや、遠慮しとくよ」


「フフッ、遠慮深いんだ」


 私は女と並んで低い鉄棒に腰を凭れかけた。


 女は細い指先に持ったウイスキーのポケット瓶をひと口あおってから、夜空を見上げるようにしてフッとため息を吐いた。


 素晴らしい所作だった。


 まるでこれまでの人生の断片のひとつひとつを、ため息を吐くたびに忘れ去ろうとしているようだった。


 女の素晴らしい動きに私はしばらく見とれた。


 ポケット瓶をあおる指や顔の動き、そのすべてが魅力的だった。

 これほどまでに綺麗にウイスキーを飲む女をこれまで見たことがなかった。


 だが今夜、女は確かに泣いていた。



「何があったんです?」


 女が何も言葉を発しようとしないので私は訊いた。


 小さな公園には人影がなかった。猫や犬、もちろんフクロウさえもいなかった。


 薄暗い常夜灯の明かりだけが、まるでひとつの使命であるかのように公園の存在を遠慮がちに世に示していた。


「何もないのよ」


 女は微かに微笑んで私を見た。


 含み笑いによって少しだけ横に広がった女の唇はとても魅力的な形をしていた。

 上下の唇の厚みや長さなどすべてが上品に整っていた。


 ただの一ミリの歪みさえない紅い唇はわずかに濡れていた。

 最高級と賞賛してもよい唇は、典型的な卵形の顔とのバランスが絶妙だった。


 私は女の唇に目を奪われ、こころが銅鑼の鐘のように鳴った。


「しかし寂しい公園だな」


「えっ?」


「この公園には気持ちがこもっていない。公園を造るときにキチンと計画を立てずに適当に造ったとしか考えられないな。造った者はこの公園への熱意なんて欠片も持っていなかったに違いない」


「どういうこと?」


「見てみろよ、あの滑り台と小さな砂場。何人遊べる?それにベンチの位置だってすべてが無造作だ。公園を粗末に考えすぎだな」


「あなたって面白いことを言うのね。どうでもいいじゃない、そんなこと」


「公園が気になるんだ」


「フフッ」


 女は笑ってからポケット瓶を口元に持っていき、ひと口飲んだ。

 そしてまた夜空に顔を向けた。


 夜空を見上げた女の細い首筋は、彫像のような芸術的な美しさを放っていた。


 完璧な所作だった。


「それじゃ、おやすみなさい」


 そう言って女は公園を出ていった。


 数秒遅れて私も公園を出たが、路地に女の姿はなかった。


 御成門駅から都営三田線に乗った。


 午後十時を少し過ぎた時刻、金曜日の夜の電車は、今日一日の社会との関わりに疲労困憊した人々で膨らんでいた。


 私が大阪から出てきて最初に驚いたのは、東京では夜が更けていくにしたがって電車が混むということだった。


 金曜日の最終電車などは信じられないほどの超満員なのだ。


 金曜日の夜の東京は、街自体が疲労で限りなく膨張していた。


 私は東京の疲労の一部を抱えた電車に乗り込んだ。


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